奇跡講座 付録 2-6. 癒しの定義*精神療法:目的、方法および実践

ファンタジー的な

今日は「奇跡講座 マニュアル編 付録」より2-6. 癒しの定義*精神療法:目的、方法および実践

少し疲れたのでファンタジーとか。
幻想の世界は魅力的。
この世界が幻想ならば、二重の幻想ということになるのだろうか。
実相からみれば、レベルの違いはないので「どちらも幻想にすぎない」なんだろうなぁ~

五感が運んでくるこれらの証言には、ただ一つの目的しかない。
すなわち、攻撃を正当化し、それにより、赦そうとしない思いの正体を認識されないままに保つことである。
あからさまに見られたなら、これは耐えがたいものである。
保護されていなければ、これが存続することはできない。
中央アート出版社)奇跡講座 マニュアル編P-2.6.4:1より

自分の小さな(?)イライラに気づきはじめて修正中。
次に気づいたのは「私が、いかに、いつも人に”いじわる”しているのか?」
無意識ではない、意識的な快楽が伴っている。

イラッとしたとき、いじわるは条件反射的に出ている。
自分が気持ちよくなるためだ。
全然、それが悪いことなんて思ってない、当然だと思ってやってたみたい。

例えば、集中してブログを書いている時に入ってくるLINEからの通知。
それに対して、気にしないで流せるのならいい。

だけど「この人って、いつも私が集中したい時にLINE入れてくる!」というイライラに続いて、
「無視、無視、完全ムーシッ!!」というのがいじわる。
行動してなくても、
そこに相手を責める気持ちが入っているから。

イライラが立っている時に、これをすぐに「幻想ですから!」と向こうにやってしまうのは難しい。
それをするには難しくても、自分の状態をつかむことはできるのだ。
だから、苛立っていること、いじわるをしたくなっているのは分かる。

そこで一息いれて、状況からひきはがし、
「何が一番大切か?」にもう一度気づくこと、
そして対応を聖霊に聞くこと。

この「いじわるをした時には、一時的に気分よくなる」というのが、最近の発見。
相手を責めたてている時も気持ちよくなってることにも気づいてる。
相手が悪いんじゃない。
相手を悪者と設定して、それを駆逐しよう、できると思い込んでるところが怖い。

私の友達が、ある時期
「過去に自分のしたことが全部よみがえってきて、罪悪感に苦しめられた」
と言っていたけど、自分のしていること、したことが全部把握できてしまったら、
私も狂いそうになると思う。
その非道さに。

だから、聖霊は私たちそれぞれのテンポに合わせて学びを持ってくる。
私は自分の状況が分かっておらず、
ずーいぶん前には「今なら試練を受け入れられます、どうぞっ!」
なんてやったことが数回あるけど、
そのときの自分の状況からいったら、とんでもない。
全然何も受け入れられなかったと思う。
今は「少しずつでお願いしますm(_ _)m」と思いながら、毎日過ごしています。

一方はもう一方へときわめて忠実に翻訳されるので、ある病気の形態を注意深く研究すれば、それに表象されている赦そうとしない思いの形態をきわめて明確に指摘できるだろう。
しかし、これがわかったとしても、治癒をもたらすことにはならない。
治癒は、ただ一つの認識によってのみ達成される。すなわち、赦しのみが赦そうとしない思いを癒し、赦そうとしない思いのみが、何らかの形の病気を引き起こすことができる、という認識である。
中央アート出版社)奇跡講座 マニュアル編P-2.6.5:3より

病気の原因は家族との過去にあったりすることも多い。
家族からの圧迫で、緩やかな対人恐怖症になったことが病気の歴史として分かったとする。
分かったとしても、赦せない時期であれば、赦せないのだ。

「こんな病気を抱えているのは家族から私への扱い方がひどかったせい!」
分かっても、ますます怒りがこみあげてくるときがある。
そういう時は赦せない。

ここに書かれている通り「赦しのみが赦そうとしない思いを癒す」。
それは周囲から自分に向けられる赦しではなく、
自分が自分の思いに対する赦しだ。

愛が与えられるから、あなたを愛するのではない。
あなたから愛されなくても、私はあなたを愛するのだ。

できないことも多い。
できないことにガッカリすることも多い。
でも、絶対に絶対に前進している。
小さくても意欲を持ち続ける限り。

今日もおだやかに、周囲の人たちを愛することができますように。
私が「愛する」ということを、きちんと理解して受け入れることができますように。

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