奇跡講座 付録 2-4. 病のプロセス*精神療法:目的、方法および実践

寺院

今日は「奇跡講座 マニュアル編 付録」より2-4. 病のプロセス*精神療法:目的、方法および実践

自分は本当に「絶賛!学びの途中中」なんだなぁ~
↑ニュアンス伝わると嬉しいけど・・・

昨日、友人と話をしていて
「人それぞれ考え方あるから、良い悪いは言えないけど・・・」と言われて、
ハッと気づいた。

私はある人を非難していた。
「またあの人はそこに引っかかるんだよね~私だったら○○○で○○するのに。」

ある人をAさんとすると。
今まで自分がAさんを非難している、裁いているとは思わなかった。

というのも、
私は家族に対しては 80%は受け入れ難く、20%は受け入れ可能であり、
常に受け入れ難い80%部分に対する批判が自分の中では飛び交い、
学びを進めることによって、簡単に「あっ、私はまた今も批判してる!」と気づけた。

Aさんに対しては 90%は素晴らしい人だと感じていて、マイナス点は10%だけ。
私はかなりの時間、瞬間についてはAさんを認め、尊敬し、受け入れていた。

だけど、私の不完全さを補う完璧な人なんてこの世界ではいない。
Aさんの10%の受け入れ難い部分が、最近発揮される出来事が重なった。
そして遂に昨日「またあの人はそこに引っかかるんだよね~」と言ったのだ。

友人(Aさんとは別の人)から一言あった時に、
やっと「あ、さっきの私の気持ちや発言は『Aさんの全体は受け入れることができません』ということと同じ!」
ということに気づきました。

90%受け入れようが、20%受け入れようが、
聖霊の前では「受け入れていない」という状態と同じです。

そう分かった時に、
まったく受け入れられない相手(私にとっては家族)と同じくらい、
ほとんど受け入れられる相手(Aさん)は私にとって学びの対象なんだな、と気づきました。

「ここさえ直してくれれば」「このクセさえなければ!」
しっかり相手を裁いています(汗)
90%はOKなので、普段はなかなか気づくことができないのですが、
自我は巧みに自分が存在できる場所を確保し続けているんだなぁ~と感じました。

したがって、病とは間違いであり、訂正を必要とするものである。
そして、私たちがすでに強調したように、最初に間違いの「正しさ」を立証した上で次にそれを見過ごすというやり方では、訂正は達成できない。
もし病が実在するのなら、真にそれを見過ごすということはできない。
というのも、実在するものを見過ごすことは狂気だからである。
だが、これこそが魔術の目的である。
中央アート出版社)奇跡講座 マニュアル編P-2.4.7:1より

今でもよくやってしまいがちな誤り。
誰かが私の意図に沿わないことをした時に、
「○○さんは、最近疲れているから、こうしてしまったのだろう」と許すのは間違い。
そうではなく、○○さんは何もしなかった、何もしていないのだ。

こういう気づきと学びを大切にして、今日も一日過ごしたい。

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