奇跡講座 マニュアル編 15. 最後には一人ひとりが審判されるのか

カラフル

今日は「奇跡講座 マニュアル編」より15. 最後には一人ひとりが審判されるのか

今日のセクション、ドキッとします。
最後の審判。
良い行いをした人は天国へ行き、悪い行いをした人は地獄へ落ちる。
そんな風に連想してしまいがちですが、奇跡講座ではそんなドキドキすることは書かれていません。

しかし、最後の審判は、それがもはや恐れと結びつけて考えられなくなるときまでは訪れない。
いつの日か、誰もがそれを歓迎するようになる。
その日にこそ、それが彼に与えられる。
自分に対する神の最後の審判を受け取るとき、彼は、世界中のあらゆるところで自分の無罪性が宣言されて世界を解放するのを聞くだろう。
中央アート出版社)奇跡講座 マニュアル編M-15.1:4より

恐れとは無縁のものだから、恐れられなくなったとき訪れる、ということ。
私達の中に、ひとつでも恐れが取り残されている状態では最後の審判はやってこない。
「最後の一歩は神が踏み出す」という部分のことだと思う。

以前に比べてずいぶんとマシになってはきたものの、
未だに近視眼的な視点で現状を捉えて、イライラすることがある。

それは特に寝坊した日に多い。
というのも、寝坊をすると、朝から奇跡講座を読まない。
そして、日中も寝坊の分を取り戻すべく奔走するので、読む時間が取れない。

そんな日は起きた時間から、この世界の常識に縛られている。
時間に縛られ、ヤルベキコトリストに縛られる。

今日はそんな日で。
寝坊し、予定通り進まない中、予定になかったものをねじ込み、
予定をこなすために周囲の人がうまく立ち回ってくれなかった。
(そんなこと、周囲の人は知ったこっちゃない!)

怒りで叫びたくなり、誰かのせいにしたくなり、
自分が不憫でかわいそうになり、泣きたくなった。
そのネガティブモードがなかなか収まらないことに気づいて、驚いた。

そこでやっと「あ、私は過去のことばかり見ている」と思う。
今を見て!そう思ったけど、なかなか収まらなかった。
そもそも今、なんてものはなく、これぜーんぶ幻想なのだ。
その根本的な場所に、今日は戻れなかったので、この世界的に処理した。

10分ほどたって、家族に少し八つ当たりして、ようやく収まった。
「全部私が悪いのに、ごめん」
こう言っても、心の中では本当はそう思っていなかった。

反省。
明日からはやっぱり朝は余裕を持ったほうがいい。
朝がおかしいと、私は一日をそんな風にこの世界的にまわしてしまうようだ。

これが私の今の状態ならば、まず頑張って起きることだ。
一日の始まりで一日が台無しになるのであれば、
その危険性をきちんと認識して、起きるようにしよう!
(と言っても、また明日は寝坊しそう・・・)

静かにすることを学びなさい。
なぜなら、聖霊の声は静寂の中で聞こえるからである。
そして聖霊の審判は、脇に退いて静かに耳をすまし、聖霊を待つすべての者に訪れる。
中央アート出版社)奇跡講座 マニュアル編M-15.2:12より

静かにできるときは、すぐに聖霊に尋ねることができる。
心が静かではないときは、聖霊に尋ねる、ということすら浮かばない。
どんどん自分で選択していってしまう。

何年たってもなかなか学びのレベルは上がっていないけれども、
こういう基本的なことが、できないけれども、
経験から分かるようになってきた。

静かにする。
眠くなるから全然できないと思い込んでいた瞑想。
また始めてみようかな・・・

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