奇跡講座のテキスト。第31章Ⅶ救済者の心眼

まんかいだ。

今日は「奇跡講座 テキスト編」より31-7 救済者の心眼

次が奇跡講座 テキスト編の最終セクションとなるのですが、
私と奇跡講座/コースとのつながりはまだ弱い。
自分の勝手な都合でどんどん後回しにされてしまうくらい。

行動は自分の選択の結果だから、
確かに私が実践しないことを選択しているのだけど、
それが無意識で、自分の知らないところでされているのでは?
と思うくらい、私にとっては奇跡講座/コースはまだまだ異質。

異質なものなので、
常に安定を目指そうとする内部からははじき出される。
何度も言うように、習慣化する作業と同じくらい、
最初は大変で、定着まで時間がかかる。

今の私にとっては、人と一緒に肩並べて学んでいないことが、
大きな救いとなり、だからこそ継続できているのだけど、
まるっきり正反対の意見を持つ人もいるだろう。

様々な学び方があることは、
学習者のすそ野を広げることになるので、とても良いことだと思う。
それでも、そんなに人間に多くの基本的パターンがあるわけではないので、
何個かの主流の学び方、というのは出てくるのだろう。

誘惑とは、地獄と惨めさの中にとどまりたいという願望以外の何だろうか。
そしてこれは、惨めであり得る自分や、地獄と苦悶の中に居続けられる自分という形象以外の何を、生起させることができるだろうか。
兄弟をこのようなものとして見ないことを学んだ者は自分自身を救済したのであり、それゆえに彼は他の者たちにとっても救済者である。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-31.VII.10:1より

そこから抜け出した人から見ると
「どうしてそんな苦しそうな場所に留まってるの?楽になれる手段はあなたの選択なのに!」
と思うことだろう。

そこに留まることが快楽、なのではなく、
今までずっとそこに留まってきたから、
それ以外の世界を知らず、抜け出すことはできない、
この世界の向こうはもっと恐怖があふれていると思い込む。

だけど、私たちには導いてくれる聖霊の存在がある。
それなくしては、この世界の向こうに行こうなんて考えないけど、
彼らは穏やかに導いてくれる。
もっと信頼してもいいのではないか、と思うが、
少しずつ彼らとの絆を深くしていくしかない。

聖性とは、内なる無垢性を見ているがゆえに、それをあらゆる所に見ることを期待する神聖なまなざしを通して見られるものである。
したがって、このまなざしは、自ら目を向けるすべての者が期待通りの者となるようにと、彼らの中に無垢性を呼び覚ます。
これが救済者の心眼である。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-31.VII.11:3より

無垢性を見る。
本当にわずかずつですが、そのような方向に進むよう、
日々自分の心を鍛錬しています。

相変わらず、私の基本は
「この世界はすべて競争であり、勝つか負けるかしかない」
なのですが、そこに少しずつ滑り込ませるように、
すべての人の神聖さを認識しようと努めています。

あなたに与えられている世界の光を、世界から隠されたままにしてはならない。
世界は光を必要としている。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-31.VII.15:1より

物理的な光ではなく、
人の心に光があふれるようになったら。
この世界はまったく違うものになるでしょうね。

どの人も持っている。
持っているものを広げていくだけ。
今日もそんな風に一日過ごすことができますように。

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