奇跡講座のテキスト。第30章Ⅶ新しい解釈

うめのはなさく

今日は「奇跡講座 テキスト編」より30-7 新しい解釈

恐れとは、決して正当化されない判断である。
恐れが存在しているということは、あなたが恐ろしい脚本を書き、それに即して恐れているということを教えているだけであり、他には何の意味もない。
しかしそれは、あなたが恐れているものそれ自体に恐ろしい意味があるからではない。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-30.VII.3:8より

前セクションで「怒りは決して正当化されない」とあったけど、
今日のセクションでは「恐れ」について。

恐れと怒りはワンセットになっていて、
表裏のような感覚なのではないかなぁ。

私だけなのかもしれないけれども、
恐れの裏側にはいつも怒りが潜んでいる。
恐れの対象について
「どうして私が恐れる必要があるの?」
というフツフツと湧いてくるもの。

無意識で立ち上がっていることもあれば、
意識でとらえられる怒りのときもある。
自分が真理を捕らえている心の部分では「完璧である」ということを
知っているから自動的に出てくるのかもしれない。

忙しい時期なので、怒りの頻度はとても多い。
どうしてこうも状況をコントロールしたがるのだろうか。
神になりたい、近づきたい、という深層心理が、
コントロール癖につながっているのかも。

スケジュールどおりに進捗がすすみ、
期待通りのクオリティで仕上がると嬉しくなる。
喜ばしい感情は悪くないことだと思うけれども、
何かやっぱりひっかかる。

けれど、今は忙しいから、
自我としては見たくない/触れて欲しくない部分のよう。
ここから奥に進めようとすると、
扉が閉まり、カチッと鍵がかかるような
そんな感覚がある。

今朝もなかなか起きてこない家族に対して
怒りを抱いていたようで、
それを消火するために、こうして書くことは役立っている。

怒りは正当化されないし、状況をコントロールする必要もない。
ただ流れるままに受け入れていくことしか私たちはできないのだろうか?

私たちには一なる解釈者がいる。
聖霊の象徴の使い方を通して、私たちはつながり合い、象徴が私たち全員にとって同じことを意味するようになる。
共通の言語によって私たちは兄弟全員に語りかけ、私たち全員に赦しが与えられていることが彼らとともに理解できるようになり、そうして私たちは再びコミュニケーションを行えるようになる。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-30.VII.7:6より

聖霊とともに今日も世界を捉えることができますように。
忙しい間、自分の見方に固執せず、視野を狭くせず、聖霊とともに笑いながら景色を眺めることができますように。

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