奇跡講座のテキスト。第29章Ⅸ赦しの夢

1月も終わり

今日は「奇跡講座 テキスト編」より29-9 赦しの夢

29章の最終セクション。
最初の頃に比べると段々と歩みが遅くなっている気がする。
進むことがキツいのだろう。
しかし、進む。
ペースが上がらなくてもいい、進むことをやめないこと。

「聖霊を1時間ごとに思い出す。」という実践はことごとく失敗続き。
自分でも決意の大きさと、まったく実践できないことのギャップに驚く。

習慣ではないことを習慣化することは難しくて当たり前だけど、
それにしてもまったく歯が立たない状況(汗)
自我防御の仕組みって、こんなにも堅固なのかと感心しきり。

裁いてはならない。
裁く者には、裁きが自分の身に下されないようにするための偶像が必要になる。
また、彼には自分が有罪宣言を下した自己を知ることもできない。
裁いてはならない。
裁けば自分自身を邪悪な夢の一部とすることになるからであり、その夢の中では、偶像が、あなたの「真の」アイデンティティーとなり、恐怖と罪悪感の中で自分自身に下した裁きからの救済となるからである。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-29.IX.2:7より

分かってる。
けど、難しい。
けど、分かってる。
そんな状況。

フツーに日常生活しているだけでも、瞬時に様々なものを裁いている。
良い/悪い、スキ/キライの判断をして、その後の行動に出たり、出なかったり。
驚くほど「瞬時」なのだ。
その間に撤回できるスキマがない。

でも、スキマがなくても、裁いた後であれば、時間はある。
すべてを見返すことは今の自分にとっては不可能だろうけど、
それが可能になっている人もいる。
目指せばできるってことだ。

もちろん、その次の段階の「裁かない」もできている人がいて、
段階を踏んで誰でもできるようになるに違いない。

分かってる。
けど、分かってるだけじゃダメ。
そこで満足してしまっては、いつまでも一歩も進めない。

自我はそれを狙ってる。
「分かってる」=「やればきっとできるから、やらなくてもいい」
そんな感覚に持っていこうと、常に狙っている。

あなたは夢を見ているにすぎない。
偶像たちは玩具であり、あなたはそれらと一緒に遊んでいるという夢を見ているのである。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-29.IX.4:4より

最近少しずつ、この世界が夢だと思ってるとは断言していないけど、
村上春樹さん流に言うと「ダンスを踊り続けるのだ」という感覚を持っている人が周囲に多くなってきた。

昨日お会いした方もドラマの俳優だと思って演じればいい。
そうすれば不要な衝突を避けることができ、自分が気持ちよく生きていける。
ということをおっしゃっていた。

今週の頭にあった方も
「頭はくたくたに疲れるけど、演じればいいんです」と。
最近、誰も「ありのままに」といわない、私の周囲(笑)
それって正しさよりも幸せを選んでいる生き方ではないか。

赦しの夢は、その夢が誰か別な者によって見られていることを証明しようとはしない。
そして、赦しの夢の中では、時間のはじまり以来聞かれたことはなかったが、誰もが今も覚えている旋律が聞こえる。
赦しは、いったん完璧なものとなれば、すぐ近くまで超時性を運んでくるので、天国の歌が聞こえるようになる。
それは耳で聞くのではなく、神の子の内側不覚に永遠にあり続ける祭壇から一度も去ったことのない聖性をもって聞く歌である。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-29.IX.8:3より

聞いてみたいなぁ~
この世界を作る寸前まで聞いていた歌なのに。
今は耳をすませても雑音ばかり聞こえてくる。

だけど、心の奥の奥にずっとその旋律は流れているから、そこにそこはかない郷愁を感じるのだろうなぁ。
そこに戻りたい、もう一度聞きたい、いつもどこかで感じてしまう。
誰もが同じ状態なのだろう。

その部分をもっと手に取るように感じることができれば、
こんな人のことを思いやれない私でも、
すべての人に対して憐みを抱くことができるようになるに違いない。

道は続き、ゴールは遠いけど、
私はスタートした、旅立ったことだけは分かる。
ゴールはあるのだ。
目指し続けよう。

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