奇跡講座のテキスト。第29章Ⅱ賓客の到来

まきまき

今日は「奇跡講座 テキスト編」より29-2 賓客の到来

昨日、家族と少し話をしました。
以前の私ならば、私が指摘したことが的を得ていて、
相手が言い訳を見つけられずに困っている時には、
ここぞとばかりに集中攻撃して、
「勝ったのは私、だって正しいのは私だから!」
と、勝利を得て意気揚々としていたことと思います。

が、昨日は途中でストップすることができました。
家族が言い訳に困っている時、
「私の伝えたいことには分かってくれたかも」と思い、
そこで私から話題を別の方向に持っていき、話を終了しました。

その後「少しだけ前進だな」と感じました。
奇跡講座/コース的に、です。

一番最初の「●●してよ!」みたいなことを言うのは、
まだやめることはできませんでした。
でも、今までが100%相手に罪悪感を押し付けるものだったとしたら、
70%くらいまでに、自己セーブで抑えることができたかも、と。

病気とは、肉体に肉体ではないものになるようにという要求である。
肉体の虚無性が、肉体が病気になり得ないということの保証である。
肉体にこれ以上のものであることを求めるあなたの要求の中に、病気という考えが内在している。
なぜなら、それは神に対して神の真の本質以下のものであることを求めているからである。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-29.II.8:1より

まずこれは、自分のことだけに適応される、と考えた方が良いかも。
周辺の人が病気であることは目に見える。
だけど、病気だからといって、目に見えるものから、目に見えない心の状態は推測できない。

学びが知識として身についてくると、
周囲の人を観察して、自分とその道の学びレベルを比べてみたり、
勝手にこちらの物差しを当てはめて、非難しがちになる。

そんなことはもちろん不要で。
ただ、自分の心の動きだけをしっかりととらえていればいいのだ。

だから、ここに書かれているのは、
「私が病気になったとしたら、私はこう考えている」と読むこと。
自分の心が病気という状態にとらわれていないか?

どうしてこうも人と比べたくなるのか。
自我というのは本当にやっかい。
きっと、今まで繰り返してきた思考ルートだから、
反射的にそのルートを通る仕組みになっているんだろうなぁ。

だから修正が難しい。
考えていないつもりでも、
思考は勝手に反射的に今まで通ってきたルートを通っていく。
そして、勝手に感想を落とし、行動を起こさせようとする。

聖霊に委ねる、というのは、
このルートを変更できる手段なのだろうなぁ。
今日も私たちが聖霊のことを思い出せますように!

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