奇跡講座のテキスト。第27章Ⅱ癒しに対する恐れ

東京大神宮

今日は「奇跡講座 テキスト編」より27-2 癒しに対する恐れ

自分で自分の言ったことに対する守れなさに苦笑続きです。
あぁ、もうテキスト編が終盤だからかぁ~
なんて、勝手に自分で納得できるよう理由つけてる自我ちゃんが居たりして。

とにかくこの27-2を何日間続けて読んでいることか!
暗記できる程ではありませんが、いい加減飽きてきました。

と思っていたら、仕事のシフトを変えた方がいいような気がしてきて、
もしかしたら12月いっぱいはこのまま書き続けることができるかもしれません。
生誕祭前後の時期だから、良い機会かもしれません。

癒されていない者たちは、赦すことができない。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-27.II.2:1より

つくづく、そうだよな、と感じます。
だからといって「自分が癒されてないから赦せないんです!」みたいな言い訳には使いたくないけど。

自分が癒されることが、きっと周囲を癒すことの近道になる!
そう分かった時、ずいぶんと気が楽になりました。

自分も苦しいけれど、周りの人たちがもっとかわいそうに見えて、
自分の中でうまく育ってない愛情を振りまいてしまう。
そういうことをしなくてもいい。

実際は行動として自然に出てきているのでしょうけれども、
「やらなくちゃ」と思わなくていい分、とても楽です。

ここ数日、自分の中に愛情があるのか探していました。
あまり目立ったものが見当たらないので、
人と比べると愛情が少ない人の部類に入ると思います。

だけど奇跡講座/コースには、
すべての人が愛そのものの存在であることが繰り返し書かれています。

私の愛情は少ないのではなく、
何かがそれを覆っていて、分厚いだけなのでしょう。
自分でその覆いを取り払う努力を続けていれば、
少しずつピカピカの愛情が出てくるに違いありません。

真の赦しを内に宿している者が、苦しむことはあり得ない。
彼は罪の証拠を兄弟の眼前に掲げることはしない。
したがって、彼はそれをすでに看過し、自分の目からも取り去っているはずである。
赦しが、片方だけのもので、他方には与えられないということはあり得ない。
赦す者は癒される。
彼が癒されることで、彼が本当に赦したことが示され、もはや彼自身やすべての生けるものに対して振りかざしたくなるような咎めの気持ちを、微塵も保持してはいないと立証される。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-27.II.3:6より

誰かにとって話すことが、自分の中の深い理解を得るために必要なように、
私にとっては、書くことが理解を得るために必要なようだ。

冒頭にも書いたように、何回も読んだ。
そして、理解もできたつもりでいた。
実践もそれに伴って行えているつもりでいた。

でも、改めて、こうしてブログとして書いていると、
本当は実践できていなかったと分かる。
残念ながら書くことがいつもセットとして必要なのかもしれない。

今日も一日、聖霊と多くの時間を分け合えますように。
私たちが一人で自我の言うとおりに暴走することがありませんように。

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