奇跡講座のテキスト。第25章Ⅴ無罪性の状態

絵

今日は「奇跡講座 テキスト編」より25-5 無罪性の状態

愛に基づいて、聖霊と共に行動するって、どういうことなんだろう?
今、それを思い出すタイミングに来ているようだ。

私は成人した家族を扶養しているのだけど、
面倒を見ていることが、家族を働かなくても良い方向に仕向けていて、
それは家族が本来の姿としてあるべきものではなく、
私が家族を現状に縛り付けているだけ、と言われたことについて。

この世界の存在意味は、ただ私が兄弟を赦して、共に天国へ帰るためだと思っている。
だから、家族がどのような状態にあろうとも、
その人を色眼鏡なく、本来の、罪のない姿で見たいと願っている。

私が家族と一緒にいるのは、とても都合がよく、
家族の言動すべてが、「私はそれを赦せるか」試されていることになっている。

心が不安定なときには「どうしてこんな人を扶養しなくちゃいけないの?」と思うが、
私が正常に穏やかな状態にいるときには、
「この人が私に赦しの機会を与えてくれているから、この状況にあえて置かれているのだ」
と、本気で思う。

指摘して下さった方は、私と家族に対して愛を向けて下さっているから、
その強さが私の心を揺らしているのだろう。

この世界のフツーの人たちと、
奇跡講座/コース学習者である私の常識が違うことは知っていて、
それを赦す機会はたくさんあって、行ってきたから、
次はスピリチュアルな世界の人たちとの常識の違いについて、
赦していくときなのかもしれない。

私から見れば、スピリチュアルな世界を自分の軸として動いている人は、
かなりレベルが高いように思えていたのだけど、
奇跡講座/コースと他の道では、根本的な考え方が違い、
殆どの人が「この世界をどうにかする」で動いている。

だが、私がまだ学習初心者であり、
奇跡講座/コースのマスターみたいな存在ではないから、
なおさら、そういう「正しそうな」人たちの言葉にゆれてしまうのだろう。

愛を基軸に考えること、聖霊と共に行動すること。
誰が悪い、罪がある、ということではないのだ。
正しい行動が、愛にあふれる行動とすべてイコールでもない。

というところまで整理できて、少しホッとしている。
人とは違うものが見える、感じるというのは、この世界のある種の能力ではあるけど、
それをどのように使うのか。

その人はそれを、その人の考え方で使ってもいい。
提示された時、私の心がどういう風に捕らえ、行動するか。
それだけが私の問題なのだ。

無罪性の状態とは次のようなものにすぎない。
攻撃したいという欲求がすっかりなくなり、それゆえに、神の子をありのままの彼以外のものとして知覚する理由が存在しない。
罪悪の必要はなくなっている。
なぜなら、罪というゴールがなければ、罪悪には何の目的もなく、無意味だからである。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-25.V.1:1より

攻撃したいという欲求が本当になくなったら、
心はとても穏やかになるのだろう。
すべての人が完璧な存在で捉えられるということだから。

今日、このセクションを読んで、ブログを書く状況になれてよかった。
ありとあらゆるところに、私の攻撃心が潜んでいて、
それをあぶりだすことができるように、
いろいろなパターン(のように見える)で、試されているだけなのだ。
そこに聖域はなく、日常の、この世界で起こりうるすべてのことが、
私が赦していく対象になっている。

私はただ聖霊の方向に耳を傾け続ける。
それで大丈夫なのだ。

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