奇跡講座のテキスト。第24章Ⅳ特別性と無罪性

強い日差し

今日は「奇跡講座 テキスト編」より24-4 特別性と無罪性

苦しかったり、くじけそうになったりすることも多いけど、
また最近、奇跡講座 テキスト編を定期的に読むようになってきて、
心の中心に置くように努力を続けていたら、
少しずつ、聖霊の声が戻ってきた。

家族とは、日曜の午後は別々に過ごすことになっているのだけど、
いつもは引きこもりの私が、今日は外出しなくてはならない予定があり、
「この人に声かけても(家族は予定があって)一緒に行かないと思うから、言わなくてもいいよね?」と思っていた。

だけど、聖霊は「話したら?」と言った。
家族のいない間に外出して、いない間に戻ってくるから、
話しても無駄、面倒なだけ、と思っていたのだけど。

「えっ?」と思って、でもやっぱり面倒で(私はどこまでも面倒くさがり)
「別に、家族がいない間に行って戻ってくるんだから、話しても意味ないじゃん!」
と聖霊に伝えても、やっぱり返ってくる答えは同じ。
「話したら?」

3回くらい、こういうやり取りをしたと思う。
それくらい私は気が進まなかった。
でも、そこまで言うなら・・・と話してみた。

「○○を買うために、あのホームセンターまで行ってくるよ。一緒に行く?」
「いや、時間がないから行かない」そう即答されると思ってた。
でも、返ってきた言葉は「用意するから待って、一緒に行くよ。帰りは別れて向こうに行ってくるけど。」

私が家族の立場だったら。
暑いから外出に気が進まない。
さらに自分には関係のない用事のためだから行かない。
そんな部分にエネルギー使っても無駄。明日はまた月曜で、仕事。
だから、行かない。

返事に驚きつつ、家族と一緒にホームセンターへ。
行きながら話をしたり、ホームセンターで目的の買い物をして終了。
予定通り、家族と別れて帰ってきた。

それだけのことだったけど、
少し家族との間の雰囲気が良くなった。
そして、ようやく聖霊の言葉が正しかったことが分かった。

私と聖霊の関係も少しずつしか修復されない。
聖霊はいつも近くに居て、正しいことを話し続けるのだけど、
私が拒否しているので、その狭くなった回路を少しずつ広げていくカンジ。
今は、雑音が多すぎて、聞き取りにくい。

それには、信頼しようと思う気持ち、と、
信頼して実践する行動力が必要になる。

特別性とは、自分以外のあらゆる人に対する信頼の欠如である。
信がただ自分だけに注がれる。
それ以外の一切は、恐れて攻撃すべき、危険きわまりない不倶載天の敵となり、破壊のみにふさわしいものとなる。
それが差し出す優しさは偽善にすぎないが、その憎悪は本物である。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-24.IV.1:1より

不倶載天(ふぐたいてん ):生かしておけないほどの恨みや憎しみがあること。また、その間柄。
古事ことわざ辞典より

自分を見ていて、情けないけど「まさにそうだ」と思う。
私が差し出す優しさは偽善。
私が特別に見えるように差し出すものであり、相手が愛おしいから差し出すのではない。
裏にあるのは、自分以外の人に対する憎悪。

これが私の行動のすべての源になっている。
この、100%ブラックな場所から、本当に真実の世界にたどり着けるのか。
本当に疑問だ。

だけど、奇跡講座/コースを始めて、今に至るまで、
もちろん生まれてからこの方、
私は自分がここまでダークな人間とは考えたこともなかった。

すべての行動が特別性を獲得するためのものであり、
それは自分以外の人を貶めるためのものであったなんて。

まぁ、ビックリ。
図太い大人になってから、このことに気づいてよかった。
もし、10代の頃なんかに気づいたら、これが原因で死んでしまうだろう。

目的とは心に属するものである。
そして心は自らが欲する通りに変わることができる。
心は自らの本来の在り方とその属性を変化させることはできない。
しかし心が目的として保持するものは変えることができ、肉体の状態は必ずそれに従って変化する。
肉体はそれ自体では何をすることもできない。
傷つけるための手段としてそれを見れば、それは傷つく。
癒しの手段として見れば、それは癒される。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-24.IV.1:6より

心は自らが欲する通りに変わることができる。
心強い言葉だ。
こんなダークな私の心だって、光あふれる状態を欲すれば変わることができる。
目的を変えれば、変わることができる。

肉体は心の目的に従うので、傷つけるためのものとしても、
癒すためのものとしても使える。
癒すことの基礎は、手段が重要なのではなく、心の位置が重要なのだ。

実相においては何の意味ももたないこの無常の世界において、唯一確かなことは次のことだけである。
すなわち、平安が完全にはあなたと共にないときや、あなたが何らかの苦痛を覚えるとき、あなたは兄弟の中に何らかの罪を見て、そこにあると思ったものについて喜んだのである。
それがあることにより、自分の特別性が安全に保たれるかに見えた。
そのようにして、あなたは自分で自分の救済者に任命した相手を救い、代わりに神からあなたに与えられた救済者を十字架につけたのである。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-24.IV.5:2より

平安が完全に私と共にいないとき。
一つ一つの瞬間の心を拾っていないと、これに気づかないだろう。
もっと、心を見る力をつけるために、繰り返し訓練していこう。

シュタイナーの本を読んだとき、
ケン・ウィルバーの本を読んだとき、
自分の心を見続けるなんて、絶対にムリ!と思った。

だけど、諦めず、訓練し続けることだけが、有効なのだ。
天才ではないし、
清らかな存在でもない。
そんな私が取り組めるのは、諦めず訓練しつづけることだけ。

これだけが、きっと、私の今生の目標であり、
成そうと思えば、成せるものなのだと思う。

すべての兄弟たちに聖霊の導きが優しく、共にありますように。

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