奇跡講座のテキスト。第24章Ⅰ愛の代替としての特別性

ひまわり

今日は「奇跡講座 テキスト編」より24-1 愛の代替としての特別性

前に進む速度がはやい時と、おそい時。
相変わらずそれを繰り返しています。

誰かに言われてなおるものでもなく、
自分の中がある程度クリアになってこない限り、
一定のテンポで奇跡講座/コースと付き合うことは難しいのかもしれません。

生活パターンが変わったからうまく付き合えない、ではなく、
奇跡講座/コースを中心に据えているならば、
そんなことに左右されることもないと思います。

愛を中心に据えれば心穏やかにその人の成長を見守ることができるのに、
どうしても「こうしてほしいのに、どうしてしてくれないの?!」
と、攻撃をしかけてしまいがちです。

聖霊に聞けば、
「そんなこと話す必要はないよ」と言われるけど、
そんな言葉を無視し、私が暴走して、
超攻撃的な言葉で相手をガンガン責めてしまうことがあります。

その瞬間、意外に自分の中で見ているもう一人が居て、
責めているのを楽しんでいるのが分かるから、
本当に性根が悪いなぁ、とも思います。

だからこそ、その人は私のために存在していて、
私の学びのためにそういう行為をするということを、
お互いの魂のレベルで同意しあっているのでしょうね。

愛は永久に一切を差し出す。
一つの信念でも、一つの捧げ物でも、出し惜しむなら、愛は失われる。
なぜならあなたは、一つの代替に愛の代わりとなるようにと求めたことになるからである。
そうすると、愛の代わりに選べる唯一の選択肢に伴い、平安の代替である戦いが訪れずにはいない。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-24.I.1:3より

一切を差し出す。
出し惜しむなら、失われる。
すごい言葉だなぁ。
だけど、奇跡講座/コースは一貫して一部だけ○○するというのは不可能と書かれている。

いつまでたっても私は
「○○さんのここはいいけど、あの部分はキライ!」みたいなことから抜け出せてない。
選択肢は一切を差し出すか、一切を差し出すことを拒否するか。
覚悟が定まっていない自分を見るのは苦しいけど、仕方がない。

しかし、認識されていない信念とは、密かに戦うという決断であり、そこでは、葛藤の結果を知られないままにされ、それが道理にかなうことかどうか検討されるべく理性のもとに運ばれることがない。
そして多くのわけのわからない結果がもたらされ、いくつもの無意味な決断が下されて隠蔽され、今度はそれらがその後に続くすべての決断を指図する力を付与された信念となる。
これらの隠れた戦士たちがもつあなたの平安を乱す力について、見誤ってはならない。
なぜなら、あなたがその力をそこに放置すると決めている間は、あなたの平安は彼らに翻弄されるからである。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-24.I.2:2より

私は自分の意志を聖霊に沿わせることがこわい。
だから、自分の意志を認識しないようにして、聖霊に決断させない。
バカみたいだけど、自分が思っていることを意識下に表したら、
ブラックすぎることが明るみに出るからこわいのだ。
(ゲイリー氏の本にもこんなことが書いてあったけど)

いろいろと理由をつけて、自分が何を考えているのか、
聖霊に関わらせないようにしようと防御しているようだ。
私がテンポ良く進んだり、急にストップしたりするのも、
恐怖感から来る防御行動なのだろう。

なんとかしなくちゃ!
穏やかな音楽を聴いていても、
穏やかそうなテレビ番組ばかり見ていても、
それで私が平安を得られるわけではない。
聴いているときはいいけど、それがなくなれば波の中に投げ出されるようなものだ。

自己コントロール。
自分しか自分をコントロールできないのに、
どうして私はその主導権を手放そうとするのか。
奇跡講座/コースと共に、確実に一歩ずつ前に進んでいきたい。

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