奇跡講座のテキスト。第23章Ⅰ和解不可能な信念

夏空

今日は「奇跡講座 テキスト編」より23-1 和解不可能な信念

だらだらと過ごしていますが、ここの更新を週1回よりも落とさないよう、
それだけは頑張ってます。
しかし、週1回のペースでも聖霊の存在を忘れることは多々あります。

家族をできるだけ心地よく過ごさせてあげたいと思い、
共通の話題で盛り上がれる場を作ったとします。

二人でそのことについて会話をしているときに、ふと気づいたら、
私たちは共通の友人への些細な不満について盛り上がっていたのでした。
二人とも同じ思いを持っていたので、なんとなくその場にいない友人のことを
「そうだよね!やっぱり、あなたもそう思うよね!」と。

誰かが間違っていて、自分が正しい。
そう思うことは、優越感という奇妙な快感をもたらします。
同じことを別の人も思っていたなら、ますます自分の正しさが強化され、
小さかった快感も、むくむくと大きくなってしまうのです。

週1回は奇跡講座/コースに触れていないと、
きっとこの部分に気づくことも時間がかかったり、
もしかしたら気づかずに「良かった~やっぱりそうだよね♪」みたいな幕切れで
その出来事を消化してしまっていたかもしれません。

神の記憶は静かな心に訪れる。
葛藤のあるところには来られない。
自分自身と戦っている心は永遠の優しさを思い出さないからである。
戦いの手段は平和の手段ではなく、好戦的な者たちが思い出すのは愛ではない。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-23.I:1より

この部分を読んだとき、創作の世界(映画・小説・ゲームなど)で、
よく「愛のために戦う」と言われることを思い出しました。

愛のためにって何だ?
自分の身近な人たちだけを守ることだけが愛なのか?
戦う相手が同じように愛するものをたちを持つ人であっても?

すごくこの部分が疑問でした。
たとえば、自分の大切な人が他人によって殺されたとします。
その他人を罰することが、私の心の平安につながるのか?

罰されなければ、自分の気がすまない。
もしそうであれば、私は永遠に今生も来世以降も
憎みあい、殺し合いの世界に居ることになります。

自分の気がすまない、それだけの理由で人を罰し、殺すのだろうか。
この世界は自我の作った偽の楽園であり、幻想なのに?
それだけの理由で兄弟を自分から分離させるの?
いつまで私たちは分離を選び続けるのだろうか。

なんだか「展覧会の絵」を聴きながら書いていたら、
妙な方向に行き始めているようです(汗)

兄弟よ、あなた自身との戦いは、ほとんど終わりに近づいている。
旅の目的地は平安の場所にある。
あなたは今、ここであなたに差し出されている平安を、受け入れたくはないだろうか。
あなたが自分の平安への侵入者として戦っていた「敵」が、あなたの目の前で、あなたに平安を与える者へと変容する。
中央アート出版社)奇跡講座 テキスト編T-23.4:1より

平安という状態を、受け入れるか/受け入れないか。
それは私たちの選択次第。

別の部分に「あなたは正しさと平安とどちらを選びたいのだろうか」みたいな文章があったかと思う。
正しさ=平安ではない、というところがポイント。

赦したくない、認めたくない、という自分の気持ちだけが、
平安の訪れをさまたげている。
誰かの気持ちではなく、自分の意志で、自分の気持ちの選択。

誰かを責めたい、という気持ちが常に沸き起こる。
その人のせいでこうなったのだ、
自分の思うとおりにいっていれば、こんなハズじゃなかった。
そこに自我がニヤリとする落とし穴がある。
だけど、同じ場所に聖霊が微笑む救済所もある。

すべては私の選択であり、誰かがした選択の中に私たちが居るのではない。
自分が右に行くか、左に行くか迷っていて、誰かに聞いたとき。
誰かが右がいいよ、という。
しかし、本当に右に行くか、左に行くかは自分の選択。
そして、真理は誰かが右左言おうとも全く関係なく、揺らぎない場所にある。

私は師と呼ぶような人は作らないと思う。
自分を導いてくれるのは聖霊だけで十分。
そして、私にとっては、すべての人が兄弟であるという事実しかないのだ。

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