奇跡講座のテキスト。第22章Ⅲ理性、および、誤りの形態

チェリーセージ。

今日は「奇跡講座 テキスト編」より22-3理性、および、誤りの形態

肉体の眼は形態のみを見る。
肉眼は、それが見るべきものとされているものを超えて見ることはできない。
そして肉眼は誤りを見るために作られたのであり、それを見過ごすために作られたのではない。
奇跡講座 テキスト編T-22.III.4より

奇跡講座/コースは、いつもシンプル。
一貫性があり、矛盾がない。
決してあいまいにすることなく、真実だけを何度も訴えかける。

この完璧さに、私はひかれ続けるのだと思う。
人によっては、真実との間を埋める中間地点から書かれたものがフィットするのだろう。

中間地点があるのは分かるし、それを書くことも必要だと思う。
受け入れ側の性格なのか、何なのか良く分からないけれども、
スピリチュアルな事柄がふんわりと女性的なものとして片付けられそうな中、
私は奇跡講座/コースにしか興味がなくなってしまった。

ものすごく遠い地点がゴール設定されているようにみえる。
ソフトなスピリチュアルのほうが断然、実践していくのは楽。
そういうものを求めている人を否定しないし(自分もそうだったのだから!)
奇跡講座/コースをそのエリアの人たちに押し付けるつもりもない。

だけど、彼らは私の兄弟であり、決して乖離している部分ではないのだ。
ただ愛をもって眺め、受け入れる。
私の気持ちの問題なのだから、彼らの状況が問題なのではない。

「肉眼は誤りを見るために作られた」
まさにその通りだと思う。
この眼に見えるものだけで判断してはいけない。

肉体の眼が外的なものの上にとどまり、それらを超えていくことができずにいる様を、見てみなさい。
肉眼が無の前で止まってしまい、形態を超えて意味にまで進むことができずにいる様を、よく見なさい。
形態の知覚ほど、目を眩ませるものはない。
なぜなら、形態を見ているということは、理解が曖昧にされていることを意味するからである。
奇跡講座 テキスト編T-22.III.6より

すべての人が同じ顔で、同じ体格で、同じ性別だったらなぁ。
誰かと誰かの見分けがつかないから、誰かを特定して責めることもないだろう。
いや、「私以外の人たち」として一まとめにして攻撃対象にするかもな。

奇跡講座/コースを実践学習していくときに、本当にこういう差異が必要なく、
それが見えれば見えるほど邪魔に感じるのだけれど、
それを超えて見る目を養うためには、違いがある世界にいなければならないのだろう。

今おかれている状況を聖霊は学びに生かす。
早くこの面倒くさい状況から抜け出したい。
日々、ただそれだけ。
(でも、面倒くさいものにひきつけられる自分もいるから、さらに面倒。)

昨日よりも愛を自分の中から取り出せる人になりますように。

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