奇跡講座のテキスト。第22章Ⅱあなたの兄弟の無罪性

国旗

今日は「奇跡講座 テキスト編」より22-2あなたの兄弟の無罪性

まだまだ聖霊に判断を任せることができず、
自分の頭で考えようとしてしまう毎日。
だからこそ、テキスト編に触れる機会を遠ざけないようにしたい。
遠ざけてしまうと、簡単に私は教えから離れてしまうだろう。

真理は喜びを差し出すがゆえに幻想の反対である。
喜び以外の何が、不幸の反対となり得るだろうか。
一つの種類の不幸を後にして、別の種類の不幸を探すことは、およそ脱出とは言えない。
幻想を変えるとは、何も変えないことである。
不幸の中に喜びを探すことには意味がない。
奇跡講座 テキスト編T-22.II.2より

「幻想を変えるとは、何も変えないことである。」
改めてこの言葉の持つ重みを感じる。
幻想の世界を眺めている私たちは、ここからアプローチする必要があるけど、
それは幻想を変えることではない。

つい、今の自分の状況を良くしようと思ってしまうけれど、
そこに愛がなければ、無意味なのだ。

たとえば会社の売り上げをあげよう、と目指す行為の中に、
他者を押さえ込んで上に立つ、なんて考えは誤りに満ちていて。
たとえそれが、同じ会社に勤めるスタッフたちのためでも、違うのだ。

会社の中にたどってきた道は違っていても、
愛を機軸に考える、ということができている、とハッキリ分かる人物がいて、
私が奇跡講座/コースから離れている間も、
その人のおかげで会社が妙な方向に進むことがなかった。

私は奇跡講座/コースから完全に離脱していたので、
兄弟たちを愛をもって見つめるとができず、
自分とまったく違う存在として眺め、
辛らつな意見を心の内に持っていたりした。

道に戻ってきた私は、今度こそ、ここから離れず、
自分の成長について「いかに愛を中心に考えることができているか」で計ろう。
言葉に出して説教するのではなく、態度でハッキリと示していきたい。

今、あなたの兄弟を見捨ててはならない。
なぜなら、兄弟と同一の存在であるあなたは、ひとりで決断することも、異なった決断することもないからである。
あなた方はお互いに生命を与え合うか、死を与え合うかのどちらかであり、また、互いに聖域を差し出す救済者であるか、有罪を宣告する審判者であるかのどちらかである。
このコースは全面的に信じられるか、まったく信じられないかのいずれかである。
なぜなら、それは全面的に真実であるか、さもなければ全面的に誤っているのであり、部分的に信じるということはできないからである。
そしてあなたは、不幸から完全に脱出するか、まったく脱出しないかのどちらかでしかない。
奇跡講座 テキスト編T-22.II.7より

この段落を最後まで書き出したいくらい!
どちらかでしかない。
とても明確で明白。

だけど真実を選び取れないのは、自分を他者から分離しようと思うからだ。
分離することで、自分の中にある罪悪感を投影したいから。
そして、自分に罪はない、と思いたいから。

自分は無垢であり、同様に他者も無垢である。
そこに何の違いもなく、お互いに完璧な存在。

罪悪感は、いつまでたっても消えないように思えるけど、
赦しを行うたびに、どんどん小さくなっている。
自分の進んでいる道を信頼すること。

救済者は裁く者ではありえず、慈悲は咎めではありえない。
そして心眼は断罪することはできず、ただ祝福するのみである。
救うことが自らの機能である存在は、救うだろう。
どのようにして聖霊がそれを行うかは、あなたの理解を超えているが、いつそれを行うかはあなたの選択でなければならない。
奇跡講座 テキスト編T-22.II.8より

私たちにできることは、決心とそれに伴う選択だけ。
選択の機会は私たちに与えられていて、
いつ正しい選択をするか、ということが常に問われている。

後回しにしたい場合は、いつまでも後回しにでき、
今回の一生でしなくても、来世までも聖霊は待っていてくれる。

だけど、幻想の世界のあり方に気づいてしまって、
真実の世界の心地よさのたった一瞬の風を感じただけの私でも、
もう以前の何も知らなかった頃には戻りたくないと思う。

その一瞬感じた、一瞬だけ垣間見た真実を大切にしよう。
聖霊が私たちを正しく導いて下さることを、いつも心に留めておくことができますように。

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