奇跡講座のテキスト。第21章Ⅱ視覚に対する責任

バラ

今日は「奇跡講座 テキスト編」より21-2視覚に対する責任

なんだかヤル気がでない。
そういう時にテキスト編読むとちょっぴり責められている気がする。
実は全然責めてなんていなくて、私の受け取り方次第なのだと分かっていても、ウッと思う。
ウッとなるのが不快で逃げてしまう。

反対に連続して調子よく進んでいるときには、毎日テキスト編に触れることに何の抵抗もない。
あぁ、あの時期に戻りたい!と思うのだけど、これも自我の誘惑なのか。
過去なんてないから、本当は。

私が見ているものについての責任は、私自身にある。
私が経験する感情を選択するのは私自身であり、私が達成したいゴールを決めるのも私自身である。
そして私の身に起こるかに見えるすべては、私が求めて、求めた通りに受け取るものである。
奇跡講座 テキスト編T-21.II.2より

見ているものについての責任。
一つのことに対して、イライラする選択もできれば、
見方を変えてのんびり構えることもできる、ということでしょうか。

よくスピリチュアル系の教えでもこういうことが説かれていますが、
教えとして理解するだけではなく、実践して、自分の中に落とし込んでいかなくちゃ。

ちょうど私はイライラしていました。
すぐに来ると思っていた連絡が来ないから。
たびたびスマホを覗いたり、PCメールを確認したり。

先ほどまで、3分に1回の割合で、イライラしながら、
何かしらそれに対する行動をしていました。
だから、このブログを書くという段階になってもちっとも集中できず、
「ヤル気がでない」と最初に書くに至ったのです。
イライラすることに気持ちが集中していたから。

でも、これは私が選んでいることだと認識できれば、
手放すという選択も、私にはできることになります。
少し気になるけど、自分が求めるものと周囲に起こること仕組みを理解して、
手放してこちらに集中することにしました。

そうなんだよなぁ~
無なんだから。
そこにイライラする必要なんてないんだよ。

自分に対して為されることを前にして自分は無力であると、これ以上自分を偽るのはやめなさい。
自分が間違っていただけだと認めなさい。
そうすれば、あなたの間違いの結果はすべて消え去るだろう。
奇跡講座 テキスト編T-21.II.2より

先ほどの引用に続く部分。
この世界に起こることに価値があると思うから、
それを手放したくないと思うから、
自分にとって良い意味でも、悪い意味でも刺激的なことが展開する。
私がそれを味わいたいと思うから。

なぁんにもないんだ。
There is no world.
この言葉を思い出しました。

今日も聖霊の助けを借りて、私たちが安らかに一日を過ごすことができますように。

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