奇跡講座のテキスト。第20章Ⅷ無罪性の心眼

季節は進む

今日は「奇跡講座 テキスト編」より20-8無罪性の心眼

今日で20章が終わりなのだけど、
あまり内容がスッと入ってこないセクション。

求めさえすれば自分のものとなるものを喜びなさい。
そして、手段にしても目的にしても、自分で作り出す必要があると思ってはならない。
ただ兄弟を罪なき者と見ようとするあなたに、これらすべてが与えられる。
それを受け取りたいとだけあなたが欲するのを待って、これらすべてがあなたに与えられる。
見ることを求める者たちに、心眼は自由に与えられる。
奇跡講座 テキスト編T-20.VIII.2より

いつものことだけど、見ようとしなければ与えられない、ということ。
一日の始まりに「今日はどれだけ意欲を持てるだろう?」と思う。
そしてそれは、次の瞬間から忘れ去られ、翌日の同じ時間にまた同じ地点に立つのだけど。

それでもやっぱり、このほんの小さな意欲の試みは続けよう。
あまり器用でもかしこくもないから、きっと繰り返し繰り返し同じ地点に立つ。
私から見ると全く進歩していない。
でも、聖霊から見ると確かに進歩しているように見えるのだ(と思う)。

先日お邪魔したある神道系の先生と話していて、
上にスッとあがれる瞬間が来るのは、
常にそれについて考えるという準備をし続けるから、と聞いた。

その通りだと思った。
全然進まず、ぐるぐる同じところを回っているように見えても、根気強く続ける。
きっと、ふと、持ち上げられる瞬間が来る。
もしくは、知らないうちに、一つ先のレベルに進んでいる。

ということで、兄弟を罪なき者と見ようとつとめよう、と思う。
(実際につとめられるかは別の問題です(汗))

心眼で眺められた一切は、聖霊の穏やかで確かな視覚がもたらす法則に従って、優しく、しかるべき場所に落ち着く。
聖霊が眺めるあらゆるものの結末は、常に確かである。
なぜなら、それは調節されない形で、聖霊の目的を果たすのに完璧に適したものとして見られるので、完璧に聖霊の目的にかなうものとなるからである。
奇跡講座 テキスト編T-20.VIII.6より

まだまだちっともこんな世界は見えないけど、
いいなぁ、こんな風に世界を見ることができたら、と思う。

あらゆることに、いちいち怒りを感じるのが面倒くさいし、
エネルギーもったいないと思うのに、やっぱりイラついてしまう。
こういう風に穏やかな情景を見たい。

この世界は、それぞれに異なり、さまざまに異なった価値をもつ多くの目的を差し出しているように見える。
だが、それらはみな同じである。
繰り返すが、序列というものはない。
あるのは価値の順位のごとく見えるものだけである。
奇跡講座 テキスト編T-20.VIII.8より

序列はない。
ただ同じ幻想が広がっているだけで、大きなことも些末なこともない。

今日もできるだけ多くの時間を聖霊と共に過ごす意欲を持つことができますように。
夜明けに一歩、今日という日が近づく糧になりますように。

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