奇跡講座のテキスト。第20章Ⅶ手段と目的の一貫性

Rose

今日は「奇跡講座 テキスト編」より20-7手段と目的の一貫性

生活時間帯やパターンを以前のものに戻さずに、以前と同じ作業ができるか?
ということを、この春から試していたのですが、やはり難しいようです(汗)

仕事が忙しくなったため、やむをえず、今のパターンにずらしました。
忙しくなる前は、奇跡講座 テキスト編を毎日読み、毎日このブログも書いていました。

仕事が落ち着いたのですが、仕事内容や他スタッフの生活時間帯とのからみで、
このままシフトしたパターンが望ましいようなので、この新しい時間帯の中で、
以前と同じように奇跡講座/コースを中心にすえた生活ができるかを試していました。

望ましい結果を得られなかったので、やはり以前と同じ生活時間帯に戻そう。
どこかに葛藤が生じるかもしれませんが、奇跡講座/コースが中心に戻ってくれば、
それも解決されると思います。

奇跡講座/コースを実践できてない罪悪感もあるのですが、
それよりも、私の中の状態が以前よりも散らかっていてザワザワしています。
とても不快に感じるので、解消したいのです。

ゴール達成のために、聖霊は本当にわずかしか求めていない。
手段を与えるにあたっても、それ以上を求めてはいない。
手段はゴールに対し副次的なものである。
そしてあなたが躊躇するとき、その理由は、手段ではなく目的が、あなたを恐れさせているからである。
これを覚えておきなさい。
さもなければ、あなたは手段が難しいと信じ込むという間違いを犯すことになるからである。
だが、手段はただあなたに与えられるというのなら、どうしてそれが難しいということがあるだろう。
奇跡講座 テキスト編T-20.VII.3より

奇跡講座/コースはハッキリしていて間違わないように書かれている。
私みたいに自分に都合の良いように解釈したがる人にはいいなぁといつも思う。
厳しく見えることもありますが、優しく書いて道に迷うかもしれないよりも数倍愛情がこもっているように思えます。

私はまさに、手段が難しい、と思っていました。
それは私の自我の言い訳であって、
ゴールを遠ざけたいから「難しいよぅ」と嘆いているに違いありません。

兄弟の肉体を見ている者は、彼に裁きを下したのであり、彼を見てはいない。
実際には彼を罪深き者として見ているのではなく、まったく彼を見ていないのである。
罪という闇の中で、彼は不可視のものである。
闇の中では、彼については想像されることしかできず、ここではあなたが彼について抱いている幻想が、彼の実相に見合ったものにされていない。
ここでは、幻想と実相は隔離されている。
ここにおいて、幻想は決して真理のものとに運ばれず、常に真理から隔離されている。
奇跡講座 テキスト編T-20.VII.6より

これを読んで、ハッとしました。
私はまた間違いを犯していることに気づいたからです。
いつも同じ間違いなのだけど(肉体としてみてしまうこと)なかなか癖が抜けません。

これからも同じ間違いを犯すでしょうけど、気づいて訂正していくことの繰り返しです。
それが少しずつ早くなり、最終的に間違いを犯すことがなくなるのだと思います。
道は遠いなぁ~

あなたの質問は、「どうすれば兄弟を肉体なしでみることができるのだろうか」であってはならない。
「私は本当に彼を罪なき者と見たいだろうか」とだけ問いなさい。
そしてそれを問うときに忘れてはならないことは、彼の無罪性があなた自身の恐れからの脱出だということである。
救済が聖霊のゴールである。
奇跡講座 テキスト編T-20.VII.9より

今までまさしく前者の問いかけをずっとしてきました。
そして、私はいつも兄弟を罪ある者として見たかったのです。
そうすることで、自分が無罪であるということが、少し輝く気がしていたから。

「罪なき者と見たいだろうか」は、かなりグッとくるものです。
一瞬一瞬の判断の中に埋め込むことができますように。

今日という一日を聖霊と共に、私たちの学びのために使えますように。
地上に光をともすこと、それを自分の使命として受け入れることができますように。

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