奇跡講座のテキスト。第20章Ⅱ百合の花の贈り物

百合の花

今日は「奇跡講座 テキスト編」より20-2百合の花の贈り物

真に与えられ受け取られる贈り物は、肉体を通して作り出されるものではない。
なぜなら、肉体には捧げることも受け入れることも、差し出すことも取り上げることもできないからである。
心のみが、何を受け取り何を与えるかを決定する。
そして心が差し出す贈り物はどれもみな、その心自身が何を望んでいるかで決まる。
奇跡講座 テキスト編T-20.II.2より

贈り物はこの世界の目で見えるものではなく、
自分の心なんだなぁ~
何かをプレゼントするときに、その裏にある心の部分だけを相手は受け取る。
モノじゃない。

普通は「見えないから」、ないがしろにされる部分。
キライな人にもお返しはしなくちゃ!と思って、お返しを渡したりする。
その時に、心は見えていないから「私がどんな気持ちで渡してもいいでしょ♪」
と、今までは思うことも多かったけど。

誰にも見えず、誰からもチェックされない部分。
反対に言えば、
自分だけが見えて、自分だけがチェックできる部分。
だから、奇跡講座/コースは難しいのだ。

こういう時にシェアする仲間がいると、
チェックしてくれるのかもしれない。
たぶん、私にも時期が来ればそういうコミュニティが持てるのだろうけど、
今はまだ持てそうもないくらい未熟だ。

何をするにしても心が一緒についてくる。
無意識に行動するなんてなくて、ただ自分が意識できていないだけ。
心はあまりにも早い速度で移り変わるから。

とらえることを日々心がけなければ、いつまでたっても、心は自分勝手にさまよう。
その時、自我が背後にいることが多い。
ちょいちょいっと捕まえてみて、その心の位置に唖然とする。
そして残念にも思うけど、自分の今の状態を把握できるから、それで良いと思おう。
(じゃないと、あまりにも自分が汚れていてレッスンそのものを投げ出したくなる)

聖霊の心眼は無為な贈り物ではなく、しばらくもてあそんだ後は放っておかれる遊び道具でもない。
耳を傾けて、よく聞きなさい。
これが単なる夢だとか、戯れの想念だとか、たまに手に取っては再びしまっておかれる玩具のごとくに思ってはならない。
なぜなら、あなたがそう思うなら、あなたにとって、それはそのようなものになるからである。
奇跡講座 テキスト編T-20.II.6より

すべては私がどう扱うか次第なんだなぁ。
自分が真実だと思えば、そういう位置にそれを置くのだし、
それは妄想だと思えば、そういう位置に置くのだろう。

私が間違うことはあっても、聖霊が間違うことはない。
できるだけ聖霊に委ねる。
休日は平日よりも落ち着いているので、実践しやすいはず。
それを少しずつ、まずは月曜の朝は延長することができるだろうし、
それが月曜一日、火曜まで、と、延びていくのかもしれない。

できるところから、手をつけていくのが私にとって良い方法なのだと思う。
これは歩んでいるときは長く感じる道のりだから。
(振り返るとあっという間の道のりであっても)

彼を、幻想からあなたを救う救済者にしなさい。
そして、百合の花を見てあなたに喜びをもたらす新たな心眼で、彼を見なさい。
私たちは恐れのベールを越えて進み、互いの道を照らす。
私たちを導く聖性は、私たちの家と同じように、私たちの中にある。
だから私たちは、自分たちを導く聖霊によって、見るべく定められているものを見つけるだろう。
奇跡講座 テキスト編T-20.II.9より

平日の朝、いつも起きれず、ブログが書けない日々が続きますが、
そんなこと気にせず。
できる時にできる限り真摯に打ち込む。

自分を自分で落としこめないように、日々歩み続けます!
そうっと応援して下さっている方々にいつも感謝しています、ありがとうございます♪

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