奇跡講座のテキスト。第20章Ⅰ聖週間

シュロ

今日は「奇跡講座 テキスト編」より20-1聖週間

ようやく新章!
19章の内容が受け入れ難かったからか、全然進みませんでした(汗)
イースター前に読めるだろうと思った第20章も、過ぎ去ってから取り組むことに。

イースター=復活祭というのは知っていましたが、
その一週間前を「棕櫚の主日(しゅろのしゅじつ)」と呼ぶことを知りませんでした。
前回テキストを読んだ時には「何か意味がある日なのかな?」と思っていましたが、
今回はちゃんと調べてみることにしました。

キリスト教用語で、復活祭の一週間前の日曜日。
イエス・キリストの受難直前の、エルサレム入城を記憶する。
「棕櫚の主日」は主にプロテスタントで使われる呼称である。
カトリック教会では受難の主日(枝の主日)と言い、最後の晩餐とそれに続く受難の前にイエス・キリストがエルサレムに入城した時に群衆がナツメヤシ(慣行的に日本語訳聖書では棕櫚と翻訳されている)の枝(植物学的には葉)を路に敷き、また手にとって迎えた(ヨハネによる福音書12:12〜15)ことを記念する日。
ウィキペディア「棕櫚の主日」より

ふぅん。
十字架刑のことを考えると、あまり好ましくないコトの始まりのように思えるけど、
最後に復活があるのだから、死ではなく生への始まりの週だということかな。

私たちはこの聖週間を、神の子の十字架刑について思い煩いながらではなく、神の子の解放を祝いながら幸せに過ごそう。
復活祭は平安のしるしであり、苦痛のしるしではないからである。
殺されたキリストには意味がない。
しかし復活したキリストは、神の子による自分自身の赦しを象徴するものとなる。
奇跡講座 テキスト編T-20.I.1より

「殺されたキリストには意味がない」
こう断言されないと、
どうしても、殺されたということがクローズアップされてしまう。
ユダのことを責めてしまいそうになる。
だけど、死は幻想であり、真実の世界では決して殺されない。

自分のちっぽけな「やられた!」に嘆くことがバカらしくなる。
イエスは、幻想の中で起こった出来事を完全に赦している。
ユダを苦しめようなんて、ちっとも思っていない。
もちろん、ユダが悪いことをしたとも思っていない。

この世界で殺されることは、究極的なこと。
それを全面的に赦せる。
この境地に至らないと、悟りというものは遠いのだろう。

相手を正当防衛のように責めているときに、
たまにこのことが浮かんできて、自分を改めようと思う。
改めようと思う前に、まずは毎回、その時のイエスのことを考えてビックリするのだけど。
毎回、自分に起こっていることと、イエスに起こったことを比べて、その途方もない開きに驚く。

彼に近づくには、今自分が赦せていないことを
一歩ずつ先に進むように、赦していくしかない。

開きは大きく、その果てまでの距離を思い愕然とするけれども、
なぜか私には意志があるのだし、
目の前のことに対処していくしか、その開きを縮める方法はないのだから。

GWが終わり、おやすみも終わり。
明日からもこうしてテキスト編を読み書き進められますように!

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