奇跡講座のテキスト。第19章Ⅳ平安への障害-B「肉体は、それが提供するもののゆえに価値がある」という信念

マーガレット

今日は「奇跡講座 テキスト編」より19-4平安への障害-B「肉体は、それが提供するもののゆえに価値がある」という信念

まだまだ奇跡講座に戻りきれていないので「この世界こそがリアルだ」という方向に流れてしまう。
今日のセクションでも少し愕然とした。

聖霊は肉体の楽しみという希望を犠牲にすることを、あなたに要求しているのではない。
肉体には楽しみの希望などないのである。
奇跡講座 テキスト編T-19.IV.B.3より

肉体の楽しみが奇跡講座/コースの考え方をすることによって、阻害されてしまう、
と、私はかなりな割合で思い込んでいるようだ。
この世界はない、ということを以前はあんなにも近くに感じていたのに、
今はこの肉体がすべてだ、とテキスト編を読み終わって5分たったら思ってしまう。

最近ようやく中断していたランニングを再開した。
約3.5ケ月ぶり。
きっと、奇跡講座/コースにまともに取り組めなくなったのも同じ時期だろう。
すべてが忙しさという幻想の時間の中で自我が「ちょっとおやすみさせる」と言ったこと。

ランニングは肉体を使うことだから、多忙感と同じくらいどっちでもいいことなのだろうけど、
私はしたいと思うし、聖霊に聞いても止められないので、これからも続けると思う。

多忙な間(今だって完全復活ではないのだけど)私はあらゆることを聖霊に聞くことを恐れた。
私の行動について「やらないように」と言われそうで。
落ち着いている今ならば「よっぽどの場合でない限り、そんなこと言わない」というのが分かる。
聖霊は今目の前に展開している状況を活用することが得意だし、
できるだけ私たちに負担が少ないように判断してくれるから。

だけどその時は、たった1分間の行動についても、聖霊に口を挟まれたくなかった。
自分の思い描いているルートとゴールがあり、それを阻害されると信じきっていたから。
今思い返すと、暴走気味な精神状態だったと思う。
そして、その暴走ルートに乗りかかる前に回避できず、やっぱり暴走してしまったことが少し悔しい。

メッセージは自分自身に送られることになると理解したなら、誰が憎しみや攻撃のメッセージを送りたいと思うだろう。
誰が自分自身を責め、有罪とし、罪の宣告をしたいだろうか。
奇跡講座 テキスト編T-19.IV.B.14より

送り手と受け手は同じ。
肉体は媒体のようなもの、それ自体に感情は持たない。

私たちが自我ではなく、聖霊にメッセージを送り、彼らからメッセージを受け取ることができますように。
平安な場所にしか平安は訪れないのだから。

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