奇跡講座のテキスト。第17章Ⅱ赦された世界

雪景色

今日は「奇跡講座 テキスト編」より17-2赦された世界

自分でもビックリしました。
ブログへのログインパスワードを忘れている!!
頭の片隅で聖霊がいつも呼びかけているにもかかわらず、
無視しようと努力してきた結果、こんなにも簡単に忘れるものかと驚いています。

仕事が相変わらず落ち着かず、ピークの状態がずっと続いている感。
では、ないな。
仕事という幻想を現実化して、それに疲れたと思い、
別の幻想で癒している(ような気になっている)状態。

少し離れて自分をみつめれば、こういう状態であることはスグにわかるのに、
渦中にいる間は、そこから離れたくない思いがあり、幻想にしがみついて、
自分勝手に、そこに「聖霊の側につけない理由」を見ていました。

今日、これを書き始めるにあたっても大きな抵抗感がありました。
それは、悪意がなさそうな、ささやき。
「もう少し時間ができたときの方が、心が落ち着いて書けるんじゃない?」
「ひとつ用事を済ませてからの方が、ブログを書くことにスッキリ専念できるよ!」

一見、正しそうに見えます。

しかし、私の行動パターンを振り返ってみると、
ここで、この誘惑に乗ったら、ブログを書くことを後回しにしはじめ、
次から次へと「これやってから書こう」という対象が現れます。
結局、いつまでたってもブログは書けない。

ほんと、えらそうなことを言うよりも、実践していくしかないな、と思います。
えらそうに言うのは、簡単。

それなりに知識を積んできたため、えらそうに言うこともできますし、
(言葉を、キラキラの額縁で飾ることばかり考えてすごしてきたので)
そのえらそうな話しっぷりに「あー、すごい人なんだ」と思ってくれる人もいたりして、
ますます私の虚栄心はくすぐられ、スパイラルに入り込みます。

そんなんじゃだめだ。
ここでまた、ただの学習者に戻らなければ。

ということで、今日のテキストに進みます。
「足踏みしすぎだっての!!」と自分につっこみを入れるのも面倒になってきたので、
そろそろきちんと、この地点を突破しなくては。

今日のセクション、美しい言葉だらけ。
こんな世界がいつか見えるのだろうか、こんな風に見れればいいな、と心から思います。

星々は光の中で見えなくなり、世界を美しく照らし出していた太陽も消え失せる。
知覚は完璧になったとき無意味となる。
学びに用いられてきた一切に、もはや何の機能もなくなるからである。
そこでは何も変化せず、知覚を可能にしていた変遷や明暗も、相違や差異も、もはや生じることがない。
奇跡講座 テキスト編T-17.II.4より

日々、人の形状の違いがなくなればいいのに!
と、思っている私にとって、これは憧れの世界。
何も変わらないことが保障されている永遠の世界で心穏やかに暮らすこと。

スピリチュアルなことを学び始めて、最初は個性に注目する時期がありました。
違っていることがよい、違っていることを認めて、受け入れあうという意識を実践する時期。
そうすることによって、私の生き難さが少し解消された気がしました。
自分を特別な存在にしたてることで、自分の存在意義をこの世界に見出したからです。

それから自分を捨てていく、自分を明け渡す段階に入るのですが、
その時点でも
「いくら善なるものに自分を差し出しても、個性っぽいものは必ず残るから自分らしさは存続する」
と思っていましたし、そう思わないと不安で、明け渡すことができませんでした。

今はもう少し進んで、みんな一緒でいい、違いなんてひとつもなくていい。
と、思うには至っていますが、心の深い位置では、100%同意していないのでしょう。
しかし、自分の考え方が変わってきたとは思えるので、
今はまだこの地点にいても良しとしましょう。

あなたが赦しのまなざしで世界を見るとき、こうした美しさのすべてが現れてあなたの視覚を祝福するだろう。
というのも、赦しは文字通り心眼を変容させ、実相世界をあなたに見せるからである。
静かに優しく混沌を越えてやってくる実相世界が、それまで知覚を捻じ曲げて過去に固定していた幻想のすべてを取り除く様を、あなたは見るだろう。
最も小さな木の葉でさえ感嘆すべきものとなり、一枚の草の葉が神の完璧さのしるしとなる。
奇跡講座 テキスト編T-17.II.6より

どんな視覚なんだろう。
想像しても、今の私の限界までしか見えないので、きっとそれよりももっとすごいもの。

このブログを書く地点に戻ってきて、ようやく「今までどこに行っていたんだろう?」と思います。
ここを目指しているのに、この数週間というもの、目隠しを突然されたみたいに、
別の世界に飛び込んでしまったかのような。

やっかいなことに、ここから離れているときに私が考えていたことは
「ちょっとくらいテキスト編から離れても、私には聖霊がいるから大丈夫」ということ。
戻ってきて、数週間の自分を振り返ってみると、ぜんぜん聖霊と共に過ごしてなんかいない!
すっかり誘惑に負けていたのでした。

赦された世界から、神の子は楽々とわが家へ引き上げられる。
そこに戻れば、彼は自分がずっとそこで平安の内に安らいでいたことを知る。
救済すらも夢となり、彼の心から消えてしまう。
救済は夢の終わりであり、夢が終われば、救済に意味はなくなるからである。
奇跡講座 テキスト編T-17.II.7より

私たちの心が、この幻想から発せられる誘惑に負けることがありませんように。
たとえ一時的に負けるとしても、必ず聖霊のささやきに耳を傾ける時がめぐりきて、
実相世界の方向を再び目指すことができますように。
聖霊のやさしさに私たちが応え続けることができますように。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーリンク
スポンサーリンク