奇跡講座のテキスト。第17章Ⅰ空想を真理のもとに運ぶ

かもめたち。

今日は「奇跡講座 テキスト編」より17-1空想を真理のもとに運ぶ

第17章に入りました。
この奇跡講座/コースの全体の流れはどうなっているんだろう?
起承転結のような流れ?
それとも強弱などなく、ゆるやかに常に学びが続いているの?

目次を眺めて、今まで終えてきた章を思い出したり、
過去に読んだ、これから先の章を思い出したりしてみました。
が、やはり分かりません(汗)

イエスは人々を救済することに対しては策士だから、
流れについてもうまく伝わるように仕込んであると思うのですが、
今の私にはさっぱりわかりません。

師の思惑や用意されているカリキュラムの順番など、
学習者にとっては、どうでもよくて、
ただ学ぼうとする意欲さえ常に持ち続ければ良いのでしょう。

確かにこんなところで時間をつぶすのも無駄なので、
今日もテキストを読んでいきたいと思います。

奇跡に難しさの序列があるはずだと主張するとき、あなたは自分には真理に預けずにおきたいものがあると言っているだけである。
あなたは真理がそれらのものごとに対処できないと信じているが、その理由は単に、あなたがそれらを真理から離しておきたいからである。
端的に言って、すべての苦痛を癒す力に対するあなたの信の欠如は、実相のいくつかの側面を空想のためにとっておきたいというあなたの願望から生じている。
奇跡講座 テキスト編T-17.I.3より

聖霊の側から見ると、こう見えるんだろうな。
聖霊にとってはすべては同じで、真理か虚偽かのどちらかしかない。
だから、私たちが虚偽の前でまごまごしている時、
彼らから見れば「それもさっきの虚偽と同じなのに、今回はやたら時間かかってんなー」
と、思っているかもしれませんね。

生き辛いとき、この世界のものは何でも捨てられる!と思います。
すべて不要。
家族みたいな深いつながりさえも、切り捨ててしまえる、と思います。

その反対に、うまく行っているとき。
身の回りに集まっているものを捨てていくことに、痛みを感じます。

前章までで「特別性、特別な関係」について学んできました。
私は今、心地よさを感じています。
そして、それを回りのモノから得ているととらえているようです。

だから、それらのものを失うことに痛みを感じるのでしょう。
慢心といえばいいのか、落とし穴発見です。

自分のために何かを取っておくなら、あなたはそれを、自分を解放してくれるはずの聖霊から取り上げる。
あなたがそれを返さない限り、実相についてのあなたの観点は歪められ、訂正されないままとならざるを得ない。
奇跡講座 テキスト編T-17.I.3より

こだわりや、好きなもの、
そういうものも、赦して手離していくことになるのでしょうか。
きっとそうなんだろう。

・・・と、考えていると、いつも自我が「そんな人生つまんないと思わない?」と声をかけてきます。
ということは、やっぱりココは大きなポイント。

自我にとって、守っておきたいもの。
幻想を私と共有するために、私に実相世界は「冴えないもの」だと感じさせたい、信じ込ませたい。
じゃないと、私がそのポイントを超えてしまいそうだから。

だから、自分が真理の外に置いてきたすべてを、聖霊に渡そうとする意欲をもちなさい。
聖霊は真理を知っており、聖霊の中で、すべてのものが真理のもとに運ばれる。
分離からの救済は完全なものであるか、まったく存在しないかのどちらかである。
それを達成させたいという意欲以外には、何も気にかけずにいなさい。
奇跡講座 テキスト編T-17.I.6より

「すべて」
軽々しく言うけどさ、とため息をついている暇はなさそうですね(笑)

表層部分では激しく抵抗を示していますが、
魂の部分というか、深い部分では真理を切実に求めているので、
ここに葛藤が必ず生じてきます。
そんな地点に今、私は存在するようです。

いつまでこの葛藤状態が続くのかわかりませんが、
私しか私にとっての障害を越えることはできないので
(本当に誰かが代わりに越えてくれたらいいのに!と思いますが)
めげても意欲を失わず、小さくても前進を続けていきます。

今日も聖霊に私の選択のすべてを渡すことができますように。
つべこべ言わずに、一つ一つを正しい方向に導くことができますように。

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