奇跡講座のテキスト。第16章Ⅶ幻想の終わり

灯台。

今日は「奇跡講座 テキスト編」より16-7幻想の終わり

仕事が一番忙しい時期に入り、実践は細々と続けているものの、
ブログを書いたり、家で早朝にじっくりとテキスト編を読むことが難しく、
往復の電車の中で読むだけの日々に入っています。

予想では、今月末でこの超多忙期が少し落ち着くかと考えていますが、
こういう中でも来週はブログ更新を少しでもできるように心がけます。
(そうしないと、テキストの同じところばかり読むことになってしまう!)

昨日、会社の人の紹介で産土(うぶすな)信仰をされている方にお会いしてきました。
wiki産土神
ご先祖様たちと同じように、私たちを守って下さる土地の神様というイメージでしょうか。
最終的には、私の産土神の居場所を調べてもらい、ある神社が指定されました。

奇跡講座/コースに本格的にかかわるようになるまでの間、
私は様々なニューエイジ系というか、スピリチュアル系の渡り歩きをしてきました。
ある時期は神社めぐりに傾倒し、新月のたびに自分に縁があると思う神社にお参りをしていました。

しかし、奇跡講座/コースを学んでいると、土地のパワーという幻想や、
妄想の世界での願い事をかなえてくれる神様という神社の在り方に疑問を感じ、
結局、さっぱりと神社めぐりも終焉を迎え、
形式的な区切りとして初詣に行く程度になりました。

だから、今回もある意味「面倒くさ」と思い、
(神社に傾倒している間は、その先生の噂は聞いていましたがお呼びがかからず)
お呼びがかかっても「えへへ」とその場を笑いでごまかして、逃げ回っていました。
が、新しいスタッフが増えたことによって、そうそうごまかしも効かくなってきました。

普通の女性の感覚をお持ちの方なら、お分かりかもしれませんが、
女性は自分を占ってもらうことが比較的好き。
だから、他スタッフはこの先生からお呼びがかかることを楽しみにしています。
彼女たちの楽しみを私が行かないことで、せき止めてはいけないなぁ、と単純に思いました。

お話を伺っていると、先生が
「みんなここに来る人は、その日の解決したいテーマがあって、
『先生、●●が上手くいきません(涙)』みたいに暗い顔をしてきて、
それを僕が持っている手法(ツール)を使って解きほぐして最後にはスッキリした顔で出てくんだけど、
倉田さんにはそういうものがなさそうだけど、なんで来たんだろうね~(笑)」と。

まさにズバリ。
「悩み事もないよね~?」
はい、そうでございます、すみませんm(_ _)m

周囲の人からは、家族の仕事がうまくいかないことを聞いてみたらどうかとか、
実父にいつ会えばいいのか聞いてみたらどうかとか、
自分のこれからのためにどうすればいいのか聞いてみたらどうかとかアドバイスをもらいましたが、
どれも周囲が思っているほど、私の中では大きなカタマリではなく、
ただ、私の中でのカタマリは「方法は分かってるけど、いかに実践して悟りに近づけるか」なのでした。

だけど、もともとの守備範囲の広さから、
興味津々で耳を傾けていると、どんどん深い話もしてくださいました。
そして「あっ、なるほどね」と気づいたのです。
彼の産土信仰の先には、神からの啓示を個人に下ろすという目的があるということ。

究極的には現世利益などはほんの入り口にすぎず、解脱→悟りの世界を目指しているということ。
日常生活の中で起こったことをとっかかりに、自分の心の動きをコントロールしていき、
最終的には、日常生活で喜怒哀楽に溺れることを回避する。

最初信仰している宗教はあるか?と聞かれて、
奇跡講座/コースは宗教じゃないしなぁと思い「ありません」と答えました。
やはり、何らかの宗教にかかわっている人は、その中で妙な癖をつけているので、
産土神を紹介しても、出会うことができない人が多いらしいです。

それを聞いて「宗教じゃないけど、奇跡講座/コースは考え方全般のものだから、この産土信仰に対する捉え方も色眼鏡で見てしまうことになるかも。」と思いましたが、
先生と話をすることで、ゴール地点が同じことが確認できたので、
「面白そうだから、これもあまり熱心に信じず、やってみよっかな」と思いました。

産土神への参拝と言っても、言葉の90%以上がお礼の言葉であったり、
神を称え、その力がもっと広く降り注ぎますようにという祈りの言葉です。
現世利益の話が殆どであれば、心はキッチリ閉じ、できるだけ早く退散、以降近づかないと思っていましたが、
目指す場所は同じであるなら、周囲の人たちが入口として利用しやすいツールを経験しておくことも、
悪くないんじゃないか。

いきなり奇跡講座/コースのようなディープな世界に入るよりも楽だと思いますし、
実際、その入り口が広く、登り傾斜がゆるやかで、
足を踏み外しても狂ったり死に至ることが殆どないという点で、
先生はこの信仰を通して神の世界を広げようと選んだようでした。

話しても良さそうだったので、先生には
「今生で悟りに到達できなくても、その域に少しでも近づくことが目標で、
それ以外には何も目指す気はありません」とお伝えしました。
先生は笑って私の話を受け止めて下さり(もちろん嘲笑ではない)
「倉田さんは素質があるみたいだから、頑張ってみたら~?」とニコニコ言われました。

ヘレンが集まった人たちに
「私を通してイエスの言葉を受け取るのではなく、一緒に繋がって、直接言葉をもらいましょう」
と話していたのと同じ感覚を持ちました。

と、前置きは長くなりましたが、
もちろん自我は巧妙に仕掛けてくると思います。
神に近づくように見せて、実は遠ざかるようなことを。
その落とし穴を確認する意味でも、とにかく奇跡講座/コースから離れないこと前提で、
他の人にはオススメできるかもしれない方法を学んでみようと思います。

特別な関係は過去に対して復習しようとする。
それは、過去の苦しみを取り除くことを求めるあまり過去に没頭し、全面的に過去に傾倒することにより現在を見落としてしまう。
特別な関係が現在の中で経験されることはない。
過去からの影がその関係をすっぽり包み込み、それをそのようなものにしている。
それは現在においしては何も意味していない。
奇跡講座 テキスト編T-16.VII.2より

私の周囲にもこういう「もったいない人」がいます。
様々なことを学び、純粋で明るいものを内に秘めている反面、
過去から抜け出せず、そこにいつまでも囚われ続けることを選択する人。
そこから一歩踏み出すのは、自分の「赦す」という決心だけなのに、もったいない。

かく言う私も、お取引先から手痛い仕打ちを受け、ついそこに意識が集中し、
ぐるぐるから戻ってこれなくなり、ようやく真の自分の位置まで帰ってきたときに
「あー、時間がもったいなかった・・・」と思うことは多々ありますが。

すでに過ぎ去っているものを去らせずにおくということは、実際にはできない。
ということは、あなたが自分が成就させたい何らかの目的に役立つと思うからこそ、過去は過ぎ去っていないという幻想を維持しているに違いない。
そしてまた、この目的は現在においては成就不可能で、過去においてのみ成就可能なものということにもなる。
奇跡講座 テキスト編T-16.VII.2より

すっごい矛盾。
過去が過ぎ去っているものならば、過去では成就可能に見えるものは絶対に成就不可能なのに、
それをあえて求めるように仕組まれている。
もちろんそれが甘い罠であるからこそ、私たちはすっぽりとはまるのでしょうけど。

過去は過ぎ去っている。
あなたを過去に縛りつける特別な関係の中に、過去を温存しようとしてはならない。
特別な関係は、救済は過去にあるのでそれを見つけるためには過去へ戻らなければならないと、あなたに教える。
空想の中で、過去への報復の夢を含んでいないものはない。
あなたはその夢を実現したいだろうか、それとも、手放したいだろうか。
奇跡講座 テキスト編T-16.VII.4より

何度も繰り返し、形を変えて語られている言葉というものは、
繰り返すことで、ゆっくり解きほぐしていく、大きな壁なのでしょうね。

私の中にもまだまだ多くの過去に対する執着があり、
今は見えないとしても、目の前で展開され行くことに反応する心を眺めている限り、
それらと次々と対峙し、過去を過去のものとして解放していく作業が続くのでしょう。

今日もすっかり開始が遅くなりましたが、
仕事をしつつ、出会う様々なできごとに対して、聖霊と共に赦しを実践していこうと思います。

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