奇跡講座のテキスト。第16章Ⅵ実相世界への橋

福寿草

今日は「奇跡講座 テキスト編」より16-6実相世界への橋

今日は新しいディスプレイ(と新しいPC)で初めてこのブログを書いています。
今まで正方形のディスプレイだったので、横長に慣れず、
慣れないというものは、集中するまでに時間を要するものですね(笑)
しかし、そんなことも言ってられないので、とっとと慣れたいと思います。

昨日も書いたように、今週はこの108star通信を書けなかったので、
テキスト編は同じ場所をぐるぐると読んでいました。
今日の「16-6実相世界への橋」についても、何回読んだことか!

・・・と、思っていたのですが、今朝、改めて読んでみたら、
「あれ?ここ、読み飛ばしてたっけ?」という部分も。

こういうフィルター機能って、よくできているなぁ、と思います。
受け入れたくない/まだ受け入れられない部分については、
そういうフィルターがかかって、読んでいるのに頭に入ってない。
だからこそ、良書というものは、何度読んでも、そのたびに新鮮な発見が生まれるのでしょうね。

愛とは自由そのものである。
自分を束縛の中に置きながら愛を探すことは、自分を愛から分離させることである。
神の愛にかけて、これ以上、分離の中に融合を探し求めたり、束縛の中に自由を探し求めたりするのはやめなさい!
あなたは自ら解放する通りに解放される。
奇跡講座 テキスト編T-16.VI.2より

愛とは自由そのもの。
すばらしい言葉ですね!

今朝もこんな学びの経験をしました。
今週は仕事が忙しく、休日は今日だけ。
だから、やらなくちゃイケナイこと、やりたいこと、今日一日に押し込めようと思いました。

家族は、そんな私の状況におかまいなく、先週と変わらない日曜の過ごし方をしています。
「どうして仕事で忙しい私が、家のことまでしなくちゃいけないんだろう?」
そう思ったのです。
「もう、ほんとに、私ばっかりで、ひどいわぁ!」と。

そこで「あれ?」と引き戻されました。
私は、家族に罪悪感を押し付けようとしている、と感じました。
もっともらしく、理由をつけて。
その上で、自分の仕事も押し付けようとしていました。
これが本当の愛なのでしょうか?

今、「特別な関係」について日々学んでいますが、
何かを与え続けてくれることを、私はその関係に際して要求しているようです。
だから、多くの人と「特別な関係」になりたい。
そうすることで、私はその人たちから、何かをずっと与えられ続けるから。

・・・つまり、自分がどこか欠乏している存在と思っていて、
その欠乏が「特別な関係」を結ぶことで満たされると勘違いしているのです。

こういう関係を相手に要求することは、反対にも同じことをされるもの。
つまり、書き出したように、「自ら解放する通りに解放される」。
反対に、私が相手に特別性を要求することによって、相手からも特別性を要求される。

何代もの生にかかわる、人との結びつきって、こういうことなんだな。
別の言葉で言い換えると「カルマ」というもの。
前世で相手を殺したから、今生ではその相手からひどい仕打ちを受ける、のような。
輪廻の抜け出せない罠。

この一生の中でも、そのスモールバージョンが繰り広げられています。
たとえば、親から虐待を受けたから、自分の子を虐待する。
もしくは、親から虐待を受けたから、親の老後の面倒を見ない。

こういう面倒くさい関係性から抜け出すためには、
気づいてしまった私たち自身が抜け出すための行動を起こさなくてはなりません。
貧乏くじ引いてしまったみたいで、どうして相手が悪いのに、私が行動しなくてはならないのだろう?と良く思いますが(笑)
自分の方が一歩天国に近かった、というだけで、どうして相手を赦さなくてはならないのか、と。

しかし、これは大きなチャンスなのです。
気づいた人だけに与えられているチャンス。
それをくぐりぬけることで、実際に楽になるのは、私たち自身です。

相手のためにもなるかもしれませんが、100%私たち自身のために行うのです。
それが兄弟たちよりも先を歩いている私たちの役割です。
(ほんとに、「そんなこと望んでないし!」とか思うことも多いのですが・・・)

橋の向こう側はまったく異なっている!しばらくの間、まだ肉体は見えているが、こちら側の世界で見えているように肉体だけが見えるのではない。
大いなる光線を打ちに含んだ小さな閃光も見ることができ、この閃光はいつまでも卑小さへと限定されたままではいない。
ひとたび橋を渡るなら、あなたの視界に入る肉体の価値はまったく小さなものとなり、あなたにはそれを重大にする必要が見えなくなる。
なぜなら、そのときあなたは、肉体がもつ唯一の価値とは、あなたが兄弟たちを一緒に橋まで伴い、そこで共に解放されるようにすることだけだと、完全に理解するからである。
奇跡講座 テキスト編T-16.VI.6より

1セクションすべて書き出してしまいました。
早くこういう状態になれるといいな。

今はまだ赦すことに時間がかかることもあるし、赦す/赦さないと選択することもアリのような気がする時もあります。
すべてのことに、大きくても小さくても、私の自我が痛もうとも、即座に適用していけたら、
この「橋の向こう」が、どんどん目の前に迫り、
それが認識できるから、さらに私たちの足取りは速くなるのでしょう。

今では、以前よりも遅延がつらくなるが、それは単に、それが確かに遅延であり、苦痛からの脱出は本当に可能だということが、あなたにわかるからである。
次のことの中に、絶望ではなく、希望と慰めを見出しなさい。
あなたはこの世界の特別な関係の中に、愛の幻想すら長い間見ていることはできない。
あなたはもはや完全には狂っていない。
まもなく、自分自身を裏切ったことの罪悪感をありのままに認識することになるだろう。
奇跡講座 テキスト編T-16.VI.8より

今はこの1行目の前半部分のようです。
後戻りしたい気持ちもあるし、もう一度眠りにつきたい気持ちもある。
あのバカだった時が、もしかして私は幸せだったのでは?なんて、自我に誘惑されるときもあります。

だけど、心のある部分では、それは単に足踏みしているだけだとわかっています。
結局は、同じシーンに戻ってくるのです。
私が自殺妄想をやめた原因と同じです。

いっときは楽かもしれません。
が、結局、乗り越えるまでは、楽→苦→楽→苦を繰り返すだけ。
永遠に楽の地点にとどまることは、今の状態では無理。
ここに気づいている、ということが「完全には狂っていない」ということ。

自我があなたに差し出した救済の真似事から、あなたが脱出したことを、喜びなさい。
あなたの関わる関係から自我が作り出した紛いものを、なつかしそうに振り返ってはならない。
今や、誰も苦しむ必要はなくなった。
なぜなら、もはや罪悪の美しさや聖性といった幻想に屈することはできないほどに、あなたは遠くまで来ているからである。
奇跡講座 テキスト編T-16.VI.10より

そして、テキストは、私がなつかしそうに振り返っていることが見えているかのよう!(汗)
振り返ってはならない、どんなに自我によって美しくデコレーションをされていても、
所詮は地獄であり、儚く枯れゆく花のような幻影を見ているだけだから。

聖霊の視座をあなたに完全に与えるために聖霊が必要としているのは、ただ聖霊の視座を共有しようとするあなたの意欲だけである。
そして聖霊の意欲は完璧なのだから、あなたの意欲は完璧でなくてもかまわない。
聖霊の完全な信によってあなたの意欲の無さを贖うことが聖霊の任務であり、そこであなたが聖霊と共有するのは聖霊の信である。
解放されたくないという自分の気持ちをあなた自身が認識することで、聖霊の完璧な意欲があなたに与えられる。
聖霊に頼りなさい。
奇跡講座 テキスト編T-16.VI.12より

日々、少しずつ、聖霊とすごせる時間を長くする努力をしています。
聖霊の意欲は完璧、この言葉がとても心強いです。
私の意欲は、向こうが透けて見えるレースのようだから。

今日も、このブログに集中できず、前半は文章が思うように出てこなかったのです。
いつも聖霊に任せて書いてもらっているのですが。
そこで「どうすればいいでしょうか?」と聖霊にたずねました。
「B.G.M.をもう少し小さなボリュームにすればいい」そう、簡単な答えをもらいました。
その後、ようやくこうして書き上げることができたのは、言うまでもありません。

私たちの意欲が完璧でなくても、小さな意欲を差し出します。
聖霊が完璧な意欲で、私たちを補い、支えて、共に今日という一日を歩んでくださいますように。

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