奇跡講座のテキスト。第16章Ⅴ完成のための選択

月

今日は「奇跡講座 テキスト編」より16-5完成のための選択

業務多忙とPC移行未完了のため、相変わらず不定期更新になっています。
更新していない間も、テキストは読み続けています。

私はブログを更新したら、テキストも先に進む方法を取っているので、
今週はテキストの同じ部分ばかり読んでいることになります(汗)

これにもそれなりの理由があるのだと思いますが、
そろそろブログを更新しないと気持ち悪く感じるようになってきました。
仕事に手をつける前に更新して、スッキリとした気分で取り掛かろうと思います。

特別な関係を見るにあたっては、まず、それが多大な苦痛を伴うものであることを、よく理解する必要がある。
不安感、絶望感、罪悪感、攻撃などのすべてが、そうした関係の中に入り込み、時折、それらが消滅したように見える時期が訪れる。
このすべてが、ありのままに理解されなければならない。
どのような形をとるにせよ、特別な関係は常に、相手に罪悪感を抱かせるために自己に対して為される攻撃である。
奇跡講座 テキスト編T-16.V.1より

【特別な関係】について語られている部分です。
まさしくこの通りだと思います。
特別な関係に光をあてるということは、
常日頃抱いている自分の気持ちに気づき修正していくこと。
一番やりたくないことなので、できるだけ見ないように奥底に押しこめている人が多い部分。

憎悪の関係であっても、愛(のように見える)の関係であっても、
どちらにしても、そうすることで、感情のバランスが取れていて、
自我的には安住の地にいられる。
自我にとっては、その関係性を保たれている状態が、最高に気持ちいい。

偽物の愛の関係としても、奇跡講座/コースから見ると特別な関係なので、
それはおかしいことだよ、と書かれているのに、
外に自分のかけらを見つけたような気がして、思わず受け入れてしまう。
そして相手がその不足しているように見えるものを差し出してくれなくなると、
一変して憎悪の関係に至る。

濃密な関係から、ライトな関係まで、
聖霊のことを完全に受け入れて、依存しない限り、
どの関係も、自分の心が動かされるものは、特別な関係の一種なのでしょう。

自我にとっては、完成は勝つことの中にあり、最後には神さえも打ち負かすまで「勝利」を延長させていくことの中にある。
この中に自我は自己の究極の自由を見る。
なぜなら、自我を邪魔するものは何も残らなくなるからである。
これが、自我の考える天国というものである。
それゆえに、自我が邪魔することのできない融合の状態は、地獄とならざるを得ない。
奇跡講座 テキスト編T-16.V.5より

私は奇跡講座/コースと出会うまで、常に「勝つ」ことを目指してきました。
勝つことが、自由を得る手段だと勘違いしていたからです。
まさにここで述べられている自我と同じ考え方なので、自我と融合して行動していたことになります。

誰かを赦し、自分の中に受け入れる「融合」は、負けることだと思っていました。
今でも、時々そういう考え方が生まれますが、
その時に考えるのは「では、イエスは負けたのだろうか?」ということです。

イエスは、融合の象徴とでも言うべき存在です。
彼が、真理に照らし合わせて、負けた存在であれば、
融合など選択する気も起こらないでしょう。

しかし、彼は負けてはいません。
自我の世界では負けたとみなされるかもしれませんが、
真理においては大きな勝利を収めています。(勝ち負けは関係ないですけど)

私はキリスト教の世界に触れたことがなく、
一般的な日本人として、なんとなく仏教の中にいる存在です。

だからイエスという人が本当に居たのかどうか、疑っても良いと思うのですが、
なぜか、それが2000年前であったとしても、
彼がこの世界に存在していたことは真実だと納得しています。

こういう部分が、前世までで何回も真理を求め続けて授かった高徳なのかもしれません。
前世までで悟れなかったから、今回も引き戻されたわけですが、
前世までの自分の求めた道がまったく無駄になっているわけではないのでしょうね。

どの特別な関係の中にも、卑小さが真実だという確信がある。
なぜなら、剥奪感を抱いている者だけが特別性に価値を見出せるからである。
特別性を求める要求と、特別性を与えることを愛の行為と見なす知覚が、愛を憎悪に満ちたものにする。
奇跡講座 テキスト編T-16.V.9より

最近、私がおちいって「あらまぁ」と思っていることが、ここに書かれています。
私はクローズドな場所を嫌って、facebookを行っていませんでした。
会社でfacebookページを持つ可能性が出てきたときに、
どんな機能があるのか試したいと思い、始めることになりました。

その世界では、人と人との関係がtwitterよりも密接に感じます。
面倒くさくなってやめたmixiと同じような。
勝手に私は「私がいいね!したら、相手もいいね!してくれる」と法則を作ったようです。
そしてその法則にのっとってくれない人をピックアップしはじめました!

それは相手から特別な存在と思ってほしい、という気持ちの裏返しです。
そして、それを満たしてくれない人は、憎悪の対象に変化します。
単純なことですが、この自分の心の流れに本当にびっくりしています。

もちろん、自分がfacebookをしているのですから、
その世界から抜け出せば問題は解決するかもしれません。
しかし、それは一時的な解決にすぎず、
ほとぼり冷めれば、また同じような世界で同じことを繰り返すでしょう。

もうこんな面倒な感情はイヤです!
だから今、自分が選んで、受け入れている環境で、赦しを実践することにします。
奇跡講座/コースで「逃げるのはもうやめなさい」と言われますが、
今までどれだけこうやって逃げ続けてきたのか、と思ってしまいます(汗)

自分の自己の死を手段として他者の自己を攻撃し、彼の自己を奪い取り、自分が軽蔑している自分自身の自己と置き換えられると、あなたは考える。
そしてあなたが自分の自己を軽蔑している理由は、それが、自分自身が要求している特別性を提供してくれないと考えるからである。
奇跡講座 テキスト編T-16.V.10より

特別性って、甘い蜜のように魅力的。
特別な存在と思われて、そういうふるまいをしてもらえると舞い上がってしまう。
底なし沼のように「もっと、もっと」なのでしょう。
だから、相手からもっともらえない場合は、憎悪に代わる。

外見も、スキルも、性格も。
すべて特別性の罠の手段におちいりやすい。
そこを通り抜けることができるのか、すごく大きな壁のように見えるけど、
トライ&エラーを繰り返しつつ、何度も何度も挑んでいかなくちゃならない問題。

救済は、幻想は真実ではないので恐ろしくはないという単純な事実の中にある。
あなたが幻想をありのままに認識しそこなう度合いに応じて、幻想は恐ろしいものに見える。
そして、幻想が真実であってほしいと思う度合いに応じて、あなたはそれをありのままに認識しそこなう。
だからあなたが真理を否定している度合いに応じて、あなたは真理か幻想か、神か空想かという単純な選択をしそこなう。
奇跡講座 テキスト編T-16.V.14より

これからもしばらく、私は単純な選択をしそこない続けるのだろう。
だけど、それを訂正してくれる存在がいる。
自分で選択する前に、聖霊に選択を託せばいいのだ。
そこから、どちらが正しいのか、を学び続ければ、いつかは神の選択が自分の選択になるだろう。

今日も日差しが暖かく差し込んでいます。
同じように、私たちの心にも神の光が差し込み、心を温めて下さいますように。
そのために、私たちが聖霊の選択を選び取ることができますように。

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