奇跡講座のテキスト。第15章Ⅶ不必要な犠牲

初詣。

今日は「奇跡講座 テキスト編」より15-7不必要な犠牲

自我はただ何かを獲得するだけのために、関係を築く。
そして、与える側である相手を罪悪感を通して自分に縛りつけておこうとする。
自我にとっては、怒りを抱かずに関わりを結ぶことは不可能である。
奇跡講座 テキスト編T-15.VII.2より

こういうフレーズを読むたびに恥ずかしく思うのは、
以前、私は自分のことを怒りが少ない人だと思いこんでいたこと。
しかもそれを自慢にしていた。

とんでもない。
自分の心の動きを眺め、一つ一つ取り出してみると、
いかに自分が、怒りの感情を中心に動いていたかがよく分かる。

今も心の部分においては、その割合は変わらない。
些細なことに、すぐ、気分を害している。
だけど、それを自分の中に認めることができ、行動に移す前に心を修正し、別の行動を選択することができる。
(もちろん完璧ではない。)

今朝も家族と話していて、行動が理解しがたく
「ばっかみたい!」と発言してしまった。
もちろん、相手のことを馬鹿よばわりすることによって、
自分より下に見下し、相手に罪悪感を持たせる発言になる。

今日は手遅れになってしまったけど、
発言後に気づいたので、
聖霊に相談し、謝って訂正させてもらった。

そして彼は、自分自身に要求している犠牲のゆえに、相手が罪悪感を受け入れて、相手もまた自分自身を犠牲にすべきだと要求する。
奇跡講座 テキスト編T-15.VII.6より

このタイプからの脱却は、私にとって難しい。
実際によく陥ってしまっている。
「私がこれだけ自分を犠牲にしてるんだから、あなたもそうしなさい!」と。
ほんと、これこそ「ばっかみたい」と自分を笑い飛ばしたい。

もちろん奇跡講座/コースは行動についての指導ではなく、
心の在り方についての指導である。

「あなたも一緒にやろうよ!」というのは問題ではない。
問題は、その時の心の位置。
愛からの行動であれば、何も問題はない。

今年も課題は山積みだ。
聖霊に行動をゆだねることも課題の一つ。

あなたは自分が怒っているときはいつでも、自我の「祝福」を受けた特別な関係を形成したと確信してよい。
というのも、怒りこそが自我の祝福だからである。
怒りは多くの形態をとる。
しかし、愛はいかなる罪悪感ももたらさず、罪悪感をもたらすものは愛でなく怒りに違いないと学ぶ者を、怒りは長い間だまし続けることはできない。
すべての怒りは誰かに罪悪感を感じさせようとする試みにすぎず、この試みこそが、特別な関係のための基盤として自我が受け入れる唯一のものである。
奇跡講座 テキスト編T-15.VII.10より

罪悪感をもたらすものは愛でなく怒りに違いないと学ぶ者を、怒りは長い間だまし続けることはできない。
本当にそうであればいいな、と思う。
ただ、この「長い間」がどれくらいのことか、よく分からない。
時間がない世界では、長い間も短い間もない。
自分の中の時計だけが、この指針なのかもしれない。

自分の心を見ていて、こんなにも簡単に自我の誘惑に負けるものなのだと感じる。
自我は絶えず「時間がない」と焦らせる。
しかし、自我が認識する時間の中で、私は一体何をしようとするのか?
この世界はないのに。

これこそ、自我の誘惑。
この世界がないのであれば、急いで何かを行なう必要もない。
それを自我が行なわせたいのは、私にこの世界を実在とさせたいから、この世界をリアルだと実感させたいから。

聖霊は、この状況を上手く使ってくれる。
聖霊を信頼して、今日も一日を過ごそう。

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