奇跡講座のテキスト。第15章Ⅵ聖なる瞬間と神の法則

よあけ前。

今日は「奇跡講座 テキスト編」より15-6聖なる瞬間と神の法則

自分で知覚する通りの必要を満たすことに満足を求めるなら、あなたは自分の強さは他者から訪れ、自分が得るものを他者は失うと信じずにはいられない。
あなたが自分自身を弱き者と知覚するなら、常に誰かが負けなければならないことになる。
だが、関係については別の解釈があり、それは力の喪失という概念を完全に超越している。
奇跡講座 テキスト編T-15.VI.6より

今日、何度か「こうなったのは、あなたのせい」ということが頭に浮かびました。
私はいつもこの方法で、自分が罪悪感を持たないようにしていました。
投影して、投影先を眺めて、「やっぱり私は何も悪くない」と思い、相手を責める。
気がついただけでも2回ですので、もっと多くの回数、毎日投影に使っているのでしょう。

ごくごく些細なことです。
電車に乗り込むときに、出口に近い車両の扉、というものが存在します。
私は出口に一番近いのは、隣の扉だと思いましたが、
家族が「この扉でいい」と言ったので、そこに乗り込みました。

電車が駅に着くと、案の定、隣の扉の方が出口に近かったので、
私たちは急いでいる人たちが降りるのを待ち、降りることにしました。
待っている間に「やっぱりこっちの扉だったじゃん!」と言いかけましたが、文字が頭に出てきたときに「アレ?」と思うことができ、発言するには至りませんでした。

些細なことだから、分かりやすかったのかもしれません。
この世界は幻想だということをスグに思いだせるから。
重要なことならば、もう少し思い出すことに長い時間がかかり、
私は家族に「やっぱりあなたの選択は間違いだった!」と言っていたかも。

しかも、これを行なっていた場合、投影のみならず、
私たちは負けて、正しい扉を選んだ人は勝ったと思ってしまいます。
そこにも分離の意識が発生するのです。
そもそもこの世界に取り分などなく、それについての勝ち負けもないのに!

聖なる瞬間には、これまで常にそうであったこと以外に何も起こらない。
ただ実相の上にかかっていたベールが剥ぎ取られるだけである。
何も変わっていない。
奇跡講座 テキスト編T-15.VI.5より

この文章を読むと、結局は見る側の視点が変わるだけで、
状況は変化しない、ととらえることができます。
天変地異が起こって、私たちが何かを得るのではなく、
私たちを損なうものは何も起こらず、ただ元通りにすべての兄弟を神とひとつとして見ることができる。

先ほどの文章でもそうですが、
私たちはこの世界から何かを与えられて、神に近づくのではありません。
私たちが今までとは違う見方をすることによって、
私たちの周囲には神の子たちしかおらず、天国がここにある、ということを学ぶのです。

とにかくまず「人のせいにしない、外的要因のせいにしない」ことを、私は心がけるようにしています。
だからといって、私が悪いのでもありません。
しかし、私の心を変えることが、私にはできます。
唯一、私ができることです。

昨日できなくても、今日できればいいし、
今日が70%の出来で終わってもいい。
ただ、天国へ帰るのだという意欲については貪欲になろう。

兄弟たちをサポートし、私が彼らを自分と一つの神の子として認識できますように。
聖霊が適切なバランスで私たちを助けてくださいますように。

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