奇跡講座のテキスト。第14章Ⅷ聖なる出会いの場

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今日は「奇跡講座 テキスト編」より14-8聖なる出会いの場

あなたは神に罪悪を差し出すことができるだろうか。
できないとすれば、それを神の子に差し出すこともできない。
神と神の子は離れてはおらず、一方に差し出される贈り物は、他方にも差し出されるからである。
あなたはこのことを知らないので、神を知らない。
そしてそれでも、あなたは確かに神を知っており、このことも知っている。
このすべては、あなたの中の聖霊の光が輝いているところに安全に保たれている。
奇跡講座 テキスト編T-14.VIII.2より

イエスに接するように、兄弟たちと接しなさい。
そういう言葉がゲイリー氏の本の中にあった気がします。
神に差し出せないものは、兄弟にも差し出せない。

誤った行動を起こす私たちは、神を知らないと言えるけど、
確かに聖霊の光が絶えずあふれている、
私たちの中のとある場所では、
神は確かに存在し、私たちはその存在を、その場所で知っている。

走っている間、とめどなく様々なことが頭の中に現れ、去っていきます。
昨日は「自分を明け渡す」ことについて、
勝手に頭の中で思考が生まれ、去っていきました。

先日、友人と軽く飲んでいる席で、
自分が尊敬している相手以外とは性的なかかわりを持てない、
ということを私は話しました。
走っているときに思い出し「これって?」と。

結論は、そういう風に身体をとらえることで、
私は身体を特別視しているのではないか、ということ。

身体を特別視していなければ、
身体に対してどんなことが起ころうとも、それを見過ごせるはず。
私は石を投げつけられることに対しても、
投げつけた相手にどんな理由があろうとも敵意を抱くことでしょう。

そこをイエスはとっくに通過して、
命を奪われるという究極的なレベルまで、
兄弟たちに自分を明け渡していた。

改めて、彼のことを驚異的な存在だと思いました。
その人が本当に私と共にいて、
「あなたはこっち側の人なんだから、こっちに上がって来なさい!」
と招いているのだろうか?
常に。
どんな時も。

ずっと、大崎善生さんのパイロットフィッシュが浮かんでいて、
あらすじも忘れてしまったけれど、
あの女性は本当の意味で自分を明け渡していたのか、
それとも受け入れられたいから、明け渡すふりをしていたのか、
と、とりとめもないことを考えていました。

とにかく、私は今のところ、明け渡せない。
身体を身体として具現化しているのは私自身なのだ、という結論に達しました。

ただ、お手本はある。
究極的すぎるけど(笑)
できれば、あそこまでは行きたくないけど、
あの意識地点にたつと、それすらどうでもいいことなのだろう。

父が、創造の力を授ける者たちとご自身をつなぐ絆は、決して解けることはない。
天国そのものが、すべての被造物との融合であり、一なる創造主との融合に他ならない。
そして、天国は今もあなたのための神の意志であり続ける。
奇跡講座 テキスト編T-14.VIII.5より

何度も何度も奇跡講座/コースでは、
神との絆は私たちがどういう状況あろうとも、つながり続ける、
と述べられています。

今まで、特に重要に思っていませんでしたが、
ようやくかなり重要なことだということがわかってきました。

先日、ボスが茂木健一郎さんの話を聞き、
「セキュアベース」という概念について説明してくれました。
それは日本語で言うと「安全基地」。
小さな子どもにとっての、母親がその場所となります。

私たちにとって真の「セキュアベース」は、神です。
これはどんなもの、どんな状況をもってしても、破壊されることはありません。
私たちは神の存在を強く感じることによって、安心感を得られます。

なぁんだかどっかの宗教みたい(笑)
だけど、奇跡講座/コースの概念を考えるには、
神の存在抜きでは語れません。
そこが私たちのスタート地点であり、最終的なゴール地点でもあるからです。

その場所に近づけるよう、
聖霊はいつも私たちの問いかけに答える準備ができています。
彼らはどんな面倒くさい私たちであっても、
快く神への近道を、常に提示しつづけてくれるのです。

神と聖霊の永遠なる存在に感謝して。
今日も彼らと共に時間を有効に活用できますように。

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