奇跡講座のテキスト。第14章Ⅶ知覚を聖霊と共有する

Close up of festive baubles on a tree

今日は「奇跡講座 テキスト編」より14-7知覚を聖霊と共有する

相変わらず、誘惑に負けっぱなし(汗)
しかし必ず戻って来ているので、そんな自分を少しほめつつ3連休を過ごしています。

机の前に座って、ブログ投稿の画面を開くまでは至極順調でした。
しかし、投稿画面を開いてから、私は30分以上もこちらを書かずに、
ちょっとした誘惑に負けて、ネットの中をあれこれ歩き回っていました。

最近知り合った友人たちからは「わかさんは意志が強いよね!」と言われますが、
さっぱりそんなことはありません。
きっぱりと断言できます(笑)
もし、そういう風に見えるとしたら、そういう風になるべく努力していることが、
少しだけ実りつつあるのかもしれません。

知らざる者たちに、彼らは知っていると納得させることは不可能である。
彼らの観点からは、それは真実ではない。
しかし、神がそれを知っているのだから、それは真実である。
これらは、「知らざる者たち」とは何であるかについての明らかに正反対の見解である。
神にとっては、知らないということは不可能である。
したがって、それはまったく見解と呼べるようなものではなく、単に存在しない何かに対する信念にすぎない。
知らざる者たちがもっているのはこの信念にすぎず、この信念のゆえに彼らは自分自身について間違っている。
彼らは自分自身を創造されたままの存在とは違うものとして定義してきた。
彼らが創造されたということは、見解ではなく、確かなことである。
奇跡講座 テキスト編T-14.VII.3より

しみじみ実感しつつ、読み込んだ文章です。
真実を知っている人が知らない人に同じ視界を押し付けても、
知らない人にとっては見えないのです。
もしくは、ものすごく馬鹿げたことに見えるかもしれません。

だから、求めていない人には、奇跡講座/コースの話はしません。
でも、求めている人が見つけられるようにサインは出しているつもり。

奇跡講座/コースの学習者にも様々なタイプが居ます。
私のように比較的感覚でとららえることが得意な人もいれば、
言葉から論理的に分析し、納得して自分の真実として落とし込む人もいると思います。

私は感覚から入っているので、論理が伴っていません。
だから、論理的なアプローチを取っている人からは、
私の解釈は穴だらけに見えるだろうな、と思います。

もちろん、そういうタイプのアンチ奇跡講座な人からはバッチリ攻撃対象でしょう。
穴だらけで弱そうに見えるから陥落も早そうに見えると思うのです。
それでも、私は求めている人に対して見える形でサインを出し続ける役割のようです。

私たちの役割は光によって、この世界を照らすこと。
闇をなくすことです。
それ以外に持って生まれた使命みたいなものはありません。

だけど、こうして自分がこんな状況(ブログ書いてる)になってきて思うのは、
自分の大きな目的は「光」なのだけど、
それがベースになっている小さな個人的役割みたいなものはあるのかも。

それは、聖霊にしか分からないことですから、ハッキリと私に分かるものではありません。
ハッキリ分かってしまえば、いつの間にか一番大切な「光」よりも、
小さな個人的役割を達成することに重点を置いてしまいそうなくらい、
私は馬鹿だからです。

達成することは、快感を伴います。
自我がそこに目をつけないワケはない、と思うのです。
そして、上手く目ざとく、すりかえ行為を行なうでしょう。

あなたは、神に授けられた任務を聖霊がどのようにして達成できるのだろうと訝しむことにより、平安への帰還を遅らせてはならない。
知っている聖霊にそれをゆだねなさい。
あなたは自分でこの重大な任務を遂行するよう求められているのではない。
あなたはただ、聖霊から求められればそれができると信じるところまで聖霊を信頼し、聖霊が勧めるわずかなことを行なうよう求められているだけである。
聖霊が求めることのすべてがいかに容易に達成できるか、いずれあなたにもわかることだろう。
奇跡講座 テキスト編T-14.VII.5より

通過点やゴールを明確に見据えて行動したい、
そう思うのは、私たちの先天的に持っている本能かもしれません。
それは、やはり恐れから来ているものでしょう。

予測ができれば、足を踏み出しやすくなります。
聖霊が、私たちをどこに連れて行くのか、できるだけ明確に知りたい。
誰もが思うことではないでしょうか。

この一年は、聖霊を信頼に足るパートナーだと認識するための一年でした。
彼らが私をどこに連れて行くのか、常に不安が伴うので、
身をゆだねない、という選択も何度もしてきました。
同時に小さなチャレンジとして、
どうなるのか分からなくても、聖霊に任せてみる、という選択の機会を増やしました。

この小さなチャレンジをしようという気にさせてくれたのは、
テキスト編であり、ワークブック編です。
この2冊がなければ、いくらスピリチュアル系の本で懇々と語られても、
(ドリーン・バーチュー氏やソニア・ショケット氏の本を読んでも!)
繰り返しチャレンジしてみることはできなかったでしょう。

テキスト編では、何度も何度も【聖霊にゆだねなさい】というフレーズが出てきます。
「またかよ」と思うこともありますが、
それだけ繰り返されないと、私たちの聖霊に明け渡すことへの恐れは解除されないから。

またかよ、と思っても、繰り返されることを受け入れると、
徐々にそれが当たり前の定義になり、
ようやく実践してみようか、というチャレンジができるようになります。

もちろん、繰り返されなくても、即実践できる賢い方もいるのでしょうけど、
私はこれがなければ難しかったので、繰り返しの重要性は、
身にしみて良く分かっています。

奇跡には大小のものごとについて、価値の違いはありません。
大きいものを赦すことも、小さなものを赦すことも等価です。

私たちの視線がその大小に惑わされることなく、
すべてのものごとを一様に聖霊の目を通して見ることができますように。
いつも永遠の中におだやかな自分を認識することができますように。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーリンク
スポンサーリンク