奇跡講座のテキスト。第14章Ⅵコミュニケーションの光

クリスマス色。

今日は「奇跡講座 テキスト編」より14-6コミュニケーションの光

だが、隠されたものだけが恐怖をもたらすことができ、それもその本質が恐ろしいからではなく、それが隠れているということが恐ろしいからである。
ぼんやりとしか見えないものが恐ろしいのは、その意味が理解できないからである。
理解したなら、それは明瞭になり、あなたはもはや闇の中にはいなくなる。
隠れた価値があるものなど存在しない。
なぜなら、隠されているものは共有できず、したがって、その価値は知られることがないからである。
隠されているものは隔離されているが、価値は常に、共に賞美することの中にある。
隠蔽されているものを愛することは不可能であり、したがって、それは必ず恐れられることになる。
奇跡講座 テキスト編T-14.VI.1より

一言ひとこと、噛み締めながら読んだセンテンス。
だからこの奇跡講座 テキスト編では、自我についての説明を繰り返ししているのですね。
自我を隠れたものとせずに、明るい場所に引っぱり出すように。
そうすれば、私たちが自我を恐れることがなくなるから。

もちろん、テキスト編でいかに自我についての説明があっても、
実際に自我を明るい場所で見ることを試みるのは私たちです。
誰かが代わりにやってくれるものではありません。

しかし、光の下に引き出すことに恐怖を感じずにすむように、
という親切な手助けにはなります。
それがなければ、私たちは決して自我に光を当てようとはしないでしょう。

曖昧で回りくどい象徴記号を使って話すあなたは、自分が作り出した言語を理解していない。
その言語には何の意味もない。
なぜなら、その目的はコミュニケーションではなく、むしろコミュニケーションの途絶だからである。
言語の目的はコミュニケーションだとすれば、このような言語がいったい何を意味し得るだろうか。
しかし、コミュニケーションを行なわないことによりコミュニケーションを行なおうとするこの奇妙でゆがんだ努力でも、それを解釈する存在がそれを作り出した者自身でない場合は、その中にそれを有意義なものとするに充分な愛が保たれている。
その言語を作り出したあなたは葛藤を表現しているだけだが、聖霊はその葛藤からあなたを解放するだろう。
奇跡講座 テキスト編T-14.VI.6より

知覚ではコミュニケーションはできない、と常々述べられているのですが、
曖昧で回りくどい象徴記号とは!(笑)

私は言葉というものがスキなので、
この迷路にはまりこんでしまっているかもしれません。
難しい言葉を並べ立て、すべてを曖昧にしてしまうことが得意かも。

【コミュニケーションを行なわないことにより、コミュニケーションを行なおうとするこの奇妙でゆがんだ努力】

・・・苦笑するしかありません。
聖霊が介在しない場合は、こんな風になってしまうのですね。
自分はコミュニケーションしているつもりでも、
真のコミュニケーションとは全くかけ離れていると。

このブログは、いつも聖霊に任せるようにしていますので、
大方大丈夫かと思っているのですが、
聖霊に任せているつもりでも、私が自我に任していたら、どうしよう!?
答えは読む方々がご自身の聖霊に問いかけてみてください!

ただ私は書くだけ。
それを活用する/しないは、読む側の自由です。
もちろん、聖霊はこの世界のすべてのものを学習手段として活用する技術を持っています。

必要そうに見えても、重要そうに見えても、
聖霊が「こんなの読むのは時間の無駄ではないでしょうか」と言ったらそうなのです。
自分の感覚を信じず、常に聖霊を信じてください。
この原則は、すべての物事に対して同じように適用できます。

私たちはすべての扉を開け放ち、光を流れ込ませなければならない。
神の神殿に秘密の部屋はない。
神殿の門は神の子を迎え入れるために広く開け放たれている。
神の歓迎に対して自ら扉を閉ざさない限り、神が呼び寄せた場所に行けない者はいない。
奇跡講座 テキスト編T-14.VI.8より

来るべきクリスマスに際して、
すべての扉をあけ、光を内側のすみずみまで届かせたいですね。

世界がイエスを迎え入れ、復活を見届けたように、
私たちも光を迎え入れ、贖罪を受け入れられますように。

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