奇跡講座のテキスト。第13章Ⅲ救いに対する恐れ

いちょうの波。

今日は「奇跡講座 テキスト編」より13-3救いに対する恐れ

あなたは愛から弱さを連想し、憎しみから強さを連想する。
だからあなたには、自分自身の真の力が自分の真の弱さのように見えている。
というのは、愛の呼びかけを聞いてしまったなら、もはやそれに対して自分が大喜びで応答することを制御できなくなるからであり、自分で作り出したと思っていた世界がまるごと消え去ることになるからである。
奇跡講座 テキスト編T-13.III.3より

本当は愛は強いものなのに、
それを知り、この世界を放棄することを恐れているから、
私は愛を弱いものと認識している。
納得です。

誰かを受け入れるというのは素晴らしいことだと理解しています。
日々、赦しのレッスンで、すべての存在と同一であることを毎回自分に確かめています。

だけど、よぅく自分の中を見てみたら、
受け入れること=周囲から踏み台にされること、ととらえている自分が居ます。
感覚的なことですが、感覚はそれに触れた瞬間に思うことなので、
理解していることよりも自分の中では大きな位置を占めていると思います。

だからずいぶんと今年すったもんだしていた家族とのやりとりは、
私が家族を受け入れることを拒んでいて、受け入れること=負けて、言いなりになることだと思い、
奇跡講座/コースの教えと自分の行動が乖離していたので、さらに葛藤を引き起こしていたのでしょう。

愛って、強いものなのだろうか?
愛って、どんなもの?

言葉では沢山見かけます。
映画や小説を読んで、なるほどと思います。
でも、自分の中を覗くと、おぼろげな形が見えるだけ。

おおよそ愛情深い人にはみえません。
どちらかというと誰も愛していない、と言った方が、
誰かを(一部の人でも)愛していると言うよりも当てはまっている気がします。

今セクションの前半には
暗雲を取り除けば、自分が父への愛に駆り立てられ、父の呼びかけに応えて、天国へ飛び込んでいってしまう
とあります。
ここまで強いものが愛なのならば、私の中には今見えないものです。
断言できます、見えていません。

先日、家族を赦したつもりでいたのに、ちょっとしたことで攻撃していたことに気づいたと書きました。
常々、通勤中には奇跡講座/コースと共にあることができるのに、
(それは通勤中に読んでいるからだとも思いますが(汗))
誰かが出勤してきて、仕事が始まると、ほぼすっぽり聖霊のことを忘れます。

毎日、そうです。
たまに、トイレに行くときや、イラッとした時に気づきますが、
それ以外はまったく思い出すことができません。

奇跡講座 ワークブック編の時も、1時間に1回なんてものが守れたためしはなく、
いつもどうしてなんだろう?と思っていました。

答えがようやく分かりました。
自分が「自ら見ないようにしている」からです。だから見えない。
その時間は自我ののんびり安らぎタイムとして、自分が取っておきたいのだと。

一見無駄に見えるかもしれないけれど、
たびたび思い出す努力を積み重ねるように努力しようと思います。
1時間に1回は無理、2時間に1回も無理かも。

でも、一つでも、その仕事中に「聖霊の軌跡」を付けることができたなら、
きっと、その点に向かって努力しつづけることによって、
点は増え、いつかは、昼間のすべての時間も聖霊の軌跡がハッキリと多く残るようになるでしょう。

最近、とても感じているのは、実践しないと意味がない、ということです。
いくら良い本を読んでも、それを実践しなければ、自分の中に吸収できたことにはならない。
そして、いつも、新しいものは踏み出す恐怖を伴う。

私は小さい頃から飽きっぽい性格で、3日坊主と周囲に言われ続けていました。
だけど、本当に続けたい、続けようと思っているものならば、
何度中断しても、その道に戻ればいい。
ようやくそんなゆるい考え方ができるようになりました。

奇跡講座/コースは私にとって真理であり、これ以外のものはありません。
仕事中も聖霊と共にあることについて、今後も努力し、挫折し、
また同じことを「やっぱり頑張ります」とブログに書くのでしょう。
それでもいいと思います。

私たちが自分自身を、自我の判断ではなく、聖霊の判断にゆだねることができますように。
兄弟たちの中の光だけを見て、それを自分と合わせることによって、確かなものとすることができますように。

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