奇跡講座のテキスト。第13章Ⅰ無罪性と、傷つかざる強さ

かたちのある光。

今日は「奇跡講座 テキスト編」より13-1無罪性と、傷つかざる強さ

今日から第13章。

最初の頃は、何章か気にせずに進めていましたが、
(気にしても先が長いことが分かっていたので)
ここまで来ると、まだ半分はいっていませんが、
進んでいることを確認するのが楽しくなってきました。

最後は第31章。
来年中にはそこまでたどり着くと思いますが、
その頃、自分の心がどれだけ平穏に近づいているのか、
とても楽しみにしています!

やはりテキスト編あっての、ワークブック編なのだと、実感しています。

良書は何度も読む価値があり、
その時の自分に合った答えが書の中にしるされているといいますが、
奇跡講座 テキスト編はまさにそんな本。

何度も読んでいるのに、こうして第1章から丹念にさらっていくと、
今までに気がつかなかったことが見えてきて、
私は今までの通読で何を読んでいたのだろう?という疑問まで湧いてきます。

過去の通読がテキトーに済まされていた、というわけではないと思います。
(いや、そうなのかな)
受け取る準備ができていない部分が多かった、というだけ。

ワークブック編を終えて、また最初から通そうかな、と考えていたとき、
聖霊の言葉を聞き取ることができ、テキスト編に戻ってきて、本当に良かったと、今では思います。

実は、提案のあった時、
「えーっ、テキスト編なんて面倒!!
長いし、そんなの1セクションずつやっても1年以上かかるじゃん!」と反論。
ワークブック編の方が明確に進んでいる実感がレッスンNo.で得られるから、そちらを進めたかった。
このブログもワークブック編の前半については、まったく触れていませんし。

今は、もちろん聖霊に感謝しています。
彼の選択は正しかった、と確信しています。

聖霊の提案は、ほとんどがこんな調子で、
後から眺めてみると「やっぱり聖霊の言うことは正しいな」と思うのですが、
選択の時には疑心暗鬼で、そちらの道を選ばないこともあります。

だけど、一歩踏み出してみないと、いつまでたっても抜け出せないので、
少しずつ聖霊の道を選び、それによる信頼を積み重ね、
最終的にいつでも聖霊の道を選び取ることができるようになるのだと思います。

今も一つ大きな件(自分の中ではそのように見える)を実行するように言われているのですが、
尻込みして実行せず、いまだ私の中に置かれています。
他の学習者に話したら「そんな些細なこと気にせずに実行したら?」と諭されると思うのですが、
自分の中ではどうしても踏み切れない一歩。

その件は12月に実施となっていたのですが、
年明けあたりから、いよいよ「もう延期しきれないや・・・」と行動し始めるでしょう。
期待しないで下さい。大したことではありませんから!
(それなら、とっととすればいいのにね(笑))

罪悪感を感じていなかったら、あなたが攻撃することはあり得ない。
咎めが攻撃の根源だからである。
それは一つの心が別の心を、愛に値せず、処罰されるべきものとして裁くことである。
しかし、ここには分裂がある。
というのも、裁いている心は、裁かれている心から分離したものとして自らを知覚しており、他者を処罰すれば自分は処罰を免れられると信じているからである。
こうしたことのすべては、心が自らを否定しておきながら否定の罰からは逃れようとする妄想的な試みに他ならない。
それは否定をやめようとする試みではなく、それにしがみつこうとする試みである。
奇跡講座 テキスト編T-13.序.1より

誰かをとがめることは、その人を裁いていることであり、
分離を現実化している試みである。

週末はおやすみなので、私が出会う人、話す相手はいつもより少なめ。
それとは反対に、家族と話す機会は多くなります。
昨晩、家族と話していて、自分の心に妙な動きがあることに気づきました。

何を話題にしていたかは忘れましたが、
相手から何かを尋ねられた時、相手がそれを知る必要はないと判断し、
あいまいに答えたこと。

見た目は問題ありません。
そういう行動も必要ならば取るべきでしょう。

問題はその時の私の心。
ネガティブな感覚でした。
いじわる、というか、相手の利益になることは言いたくないというか、
なんだかそんな心。

今朝、まったく違うシーンで、別の問題で、私は家族を咎めました。
「どうして起こしてくれなかったの?」と。
明らかに私はイライラしていました。

今日はすぐにこの心の動きに気づきました。
相手が私を思いやって寝かせておいてくれたのだ、とかそんな解釈は不要で、
とにかく赦すことなのだと、ようやく気づきました。

正直、驚きました。
もっと大きな出来事で家族を咎めることは、今まで繰り返し行なっており、
そういうシーンに何度も対応することで、
私は家族を赦しきっているものだと思い込んでいたのです。

こんな些細なことで、家族を咎めている部分がまだあったなんて!
そして、今までこういう些細な部分が自分には明らかになっていませんでした。
自分の心なのに、コントロールできていなかった部分。

やっと、この些細な面でのトリガーが見えたので、
次からは心をコントロールして、対応を聖霊に判断してもらうことができるはず!
(きっと、ね。)
まだまだですなぁ~

あなたが無罪だというのは、時間の中ではなく、永遠においてのことである。
あなたは過去において「罪を犯した」が、過去は存在しない。
常なるものには方向がない。
時間は一つの方向に進むかに見えるが、あなたがその終着点に達したときには、あなたの背後の過去に沿って長々と敷かれていた絨毯のように、くるくると巻き取られて消えてしまう。
神の子が有罪だと信じている限り、あなたはこの絨毯の上を、行き着く先は死だと信じながら歩き続ける。
奇跡講座 テキスト編T-13.I.3より

この絨毯のようにくるくると巻き取られ、という表現はいいな。
とてもよく分かる。
本当に、過去はどこに行ってしまうのだろう?と考えてしまう。

記憶力の良い人と、悪い人がいて、
私はどちらかというと悪い人で、いろんなことを忘れるので、
記憶の良い人に頼っている。
私の絨毯は巻き取られるけど、記憶の良い人が巻き取ってしまいこんでいるのか?

それはとても賢そうな人にみえるけど、時に記憶に縛られて身動きがとれず、
そこから自分ではなかなか進み出せなくなるので、かわいそうに思うこともある。
まずは私が記憶の良い人を便利グッズ扱いしなければいいのだろう。
気をつけよう(汗)

聖霊は時間の終着点に立っている。
聖霊と共に居るあなたも、そこに居るはずである。
神の子にふさわしくない一切を、聖霊はすでに取り消している。
それが聖霊が神から授かった使命だからである。
奇跡講座 テキスト編T-13.I.4より

聖霊によって、私たちにはふさわしくない全ては取り消されている。
これはとても嬉しい言葉。
どんなことを私が選択してしまっても、それはすでに取り消されている。
だからといって、聖霊から離れて、自我の泥沼でチープな快楽におぼれるつもりはないけど(笑)

この聖霊による取り消しについては、
私くらいのレベルの心の人なら自我に抵抗できると分かっているから、気づくことなのだろう。
じゃなければ、こちらの世界は誰かの妄想に過ぎなくても、
かなり大変な世界になってしまうから。

あなたは無罪であるがゆえに傷つかざる存在である。
あなたは罪悪感を通してのみ、過去にしがみついていられる。
なぜなら、自分のしたことのせいで自分は罰せられるだろうと確信させるのが罪悪感であり、そのようにして罪悪感は過去から未来へと進む一次元的な時間の上に成り立っているからである。
これを信じるものは誰も、「常に」ということが何を意味するのか理解できない。
したがって、罪悪感により、あなたは永遠性を賞美できなくなる。
奇跡講座 テキスト編T-13.I.8より

罪悪感を通してのみ、過去にしがみついていられる。
この言葉を今日は自分の中で繰り返したい。

イエスが生まれた12月。
私たちが一歩でも彼に近づけるよう、
今日も聖霊が導いてくださいますように。

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