奇跡講座のテキスト。第12章Ⅵキリストの心眼

銀杏並木

今日は「奇跡講座 テキスト編」より12-6キリストの心眼

聖霊がついにあなたを祭壇のキリストを通して父へと導いたとき、知覚は智識へと溶け込む。
なぜなら、知覚があまりに神聖になったために、それが聖性へと転移することは、単にその自然な延長にすぎないからである。
何ものにも邪魔されずに、愛は愛へと転移する。
それは両者がひとつのものだからである。
あなたがすべての状況の中により多くの共通の要素を知覚するようになるにつれて、聖霊の導きによる訓練の転移が頻繁になり、普遍化されるようになる。
次第に、あなたはそれをあらゆる人と物に対して適用できるようになる。
その適用性は普遍的だからである。
奇跡講座 テキスト編T-12.VI.6より

「こんな風になったらいいなぁ~いつこうなるんだろう?」
この部分を読みながら思いました。

今は、最も日常的で身近な部分から赦しを実践しています。
ここが今の私のフィールドだから。
私にはこれが現実と思えてしまう。
だから電車の椅子取りゲームに必死になってしまう(笑)

電車の椅子取りゲームに必死になっているときは、
電車の椅子を現実化しています。

それを渇望する兄弟がいたら、
何の執着も持たずスペースを空けることができることが、
その兄弟を赦し、電車の椅子は実相ではない、と認識する一歩なのだと思います。

昨日は、少し適応が簡単なバージョンで、
椅子取りゲームから身を引くことができました。

電車は少し余裕のある状態で、私は空いている場所に座りました。
隣の席は空いたままでした。
向かいにも一席だけ空きがありました。

ある駅で父親と彼に抱かれた子ども、歩いている子どもの3人が乗ってきました。
父が抱いている子どもに「椅子に座って」と語りかけると、
子どもは「パパと一緒がいい!」と。

結局、子どもを抱きかかえたまま、父は隣の席に座りました。
歩ける子どもに対しては「立ってなさい」と。
向かいの席も埋まり、空席がなくなったからです。

そこで子どもは、ドアの方に行きましたが、
すぐに戻ってきて、やはり父親と弟の近くに居たそうにしています。
あいにく、その近くには、彼がつかまっていられるバーなどもありません。

その時に、私はちらっと
「どうしてこの子のことまで考えて、この父親は座らなかったのか?」
と思いました。

父親を攻撃したのです。
とても些細なことでしたが。

その時にハッと(ようやく)気づきました。
これじゃ、いつもの「椅子取りゲーム」と変わらない。
自分が、いつもと同じ対応をしていることに。
そこに、ようやく気づいたので、立っている子どもに席を譲りました。

ここで、私の心は感謝の言葉などをもらいたがるので、
「感謝の言葉をもらうためにやったんじゃない」と思いなおし、
少し離れた場所に移動しました。

ここを訪れる人が、ガッカリするくらいの些細なこと。
だけど、私はこのレベルが自分にとっては現実になっているので、
まずはここから赦しを行なう必要があるのです。

キリストの目は開いている。
そしてあなたがキリストの心眼をあなたのものとして受け入れるなら、あなたが愛をもって見るものは何でも、キリストが見ることになる。
聖霊は、眠っている神の子の一人ひとりのために、キリストの心眼を保っている。
キリストの視覚には、神の子は完全無欠と映る。
奇跡講座 テキスト編T-12.VI.4より

キリストの心眼(ヴィジョン)を通してみるものは、
すべてが完璧で素晴らしいものでしょうね!
必ず欠けている部分を見つめてしまう私の視覚。
一つひとつ聖霊による修正を通して、その地点にいつも向かっていたい。

今日も残りわずかな一日ですが、
聖霊と共にあり、赦しを与えられる機会すべてで実践できますように。
そして眠りにおちている間も、聖霊が活用してくれますように。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーリンク
スポンサーリンク