奇跡講座のテキスト。第11章Ⅵ救いへの目覚め

さざんか さざんか 咲いた道

今日は「奇跡講座 テキスト編」より11-6救いへの目覚め

いつも「瞑想しよう!」と思うのですが、あっという間に眠りこけてしまいます。
今日は、このセクションも読んでいて何度か居眠りしてしまいました(汗)
日曜で良かった!

こういうのも自我の拒絶反応の一種だとは思いますが、仕方ない。
おかげで一回読んだところを、繰り返し読んでいることに気づかず、
少し進んでから「あれ?ここは読んだ気がする!」と。

再読していることに気づかなかった部分は、読み流していたようです。
奇跡講座/コースの本を読んでいると、こういうことは日常茶飯事です。

私が無駄に死んだと教えてはならない。
そうではなく、私があなたの中に生きていると示すことによって、私は死んでいないと教えなさい。
なぜなら、神の子の十字架刑を取り消すことが救いの仕事であり、そこにおいては、誰もが同等の価値ある役割を担っているからである。
神は無罪の神の子を裁かない。
神はご自身を彼に与えたのだから、それ以外のことがあり得るだろうか。
奇跡講座 テキスト編T-11.VI.7より

クリスマスと言えば、KFC!じゃなくて、イエスですよね(笑)
上記記載の少し前には十字架刑の話が書かれています。
神が自分の子を十字架にかけて喜ぶのだろうか?
もちろん答えはNO!

私がキリスト教の教義に軽く触れたのは20歳くらいの頃。
その頃出会った男性が宣教師のようなことをしていて、
彼から少し話を聞いたのでした。

そこでイエスが私たちの罪を背負って十字架に掛けられ、
私たちは許された存在となった、と知りました。

が、後でよく考えてみると、先ほど書いたような、
神が自分のお気に入りとしている子どもを十字架に掛けて喜ぶという矛盾、
許されたはずなのに、苦しい私たちの毎日、
許されているのに、再臨を望むことはどういう意味?とか、
いろいろ不思議に思うことが出てきます。

もちろん、こういうのはかじっているだけだからの疑問であって、
キリスト教信者であれば、ハッキリとすべて否定的な答えが返せるのでしょうけど、
私にはそんなものは不要です。

私たちはもう二度と、自分の周囲の人に自分の罪悪感をかぶせて、
第二のイエスを作り出してはならない。
だから、

神の子の両手から釘を抜き取り、その額から茨の棘の最後の一本を取り去るまでは、あなたは平安を見出すことはない。
奇跡講座 テキスト編T-11.VI.7より

とあるのですね。

AさんがBさんに罪悪感を投影していることを見てしまい、
「あら~」と思ってしまうこともありますが、
そのことについて、Aさんを責めることは誤りです。

何度も何度もこの罠にはまりそうになりますが、
そうすることは、AさんとBさんという登場人物が、私とAさんに代わっただけ。
私の罪悪感をAさんに投影しているだけなのです。
善人っぽい甘い優越感も引き起こされる行為なので、気をつけなくては。

神の子は救われている。
この自覚だけを一なる子のもとへ運びなさい。
そうすれば、あなたは救いにおいて、私の役割と同じく貴重な役割を担うだろう。
なぜなら、あなたの役割は、あなたがそれを私から学ぶなら、私の役割と同じにならざるを得ないからである。
自分の役割が限られたものだと信じるなら、あなたは私の役割をも限定している。
奇跡講座 テキスト編T-11.VI.10より

イエスの役割はすごいとは思いますが、
私には同じ役割ができるとは思えません。
しかし、それができないと思うことは、できなくさせてしまうことに通じる。

いつかイエスとそっくりな心境に至れるのだろうか。
ま、今日のところは、赦しの実践を行なうしかないですね(笑)
今日も聖霊と共に正しい道を選択することができますように。

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