奇跡講座のテキスト。第11章Ⅴ自我の「力動論」

むらさきいろ。

今日は「奇跡講座 テキスト編」より11-5自我の「力動論」

幻想を直視しない限り、誰も幻想から逃れることはできない。
見ないでいることにより、幻想が保護されているからである。
幻想が危険なはずはないのだから、幻想からしり込みをする必要はない。
奇跡講座 テキスト編T-11.V.1より

昨晩、家族と真剣な話をしていたときに憤りを感じました。
相手が「これ以上は話すことがありません」と、シャットアウト。
聖霊に相談しても「それ以上つっこんでも無駄」と言われ、話し合いは終了に。

その後、猛烈に「もうイヤだ。」と感じました。
一人で暮らせたら、どんなに楽だろう!
家族を捨てて出て行ってしまいたい!
お金も家も猫も(!)要らないから、一人になりたい!

背後でチラチラと、聖霊が「これは幻想です」というメッセージを送ってきます。
もちろん分かってます、幻想ですし、家族も私も存在していません。

だけどもう、うんざり。
家族から離れれば、どんなに私がスッキリするか!
その後、家族がどうなろうと、私にはまったく関係がなくなります。
考えるだけで、胸の躍る計画。

聖霊と共に「家族もこの世界も存在していません」と
ずっとバックグラウンドでは唱えるのですが、うまくいきませんでした。
あまりにも効果がないので、心を、その場から一旦離すようにしました。
まずは軽く瞑想をして、その後、何も考えずに眠りにつくことに。

朝、目覚めたら、なんとなく心が軽くなっている気がします。
現実は変わりません。
家族はやっぱり一緒に住んでいるし、状況は何も変化していません。

ですが、昨晩よりも家族を受け入れられるし、
幻想という事実も受け入れられる気がしてきました。
そこで、もう一度、昨晩失敗した赦しを行ないました。

自我は分析し、聖霊は受け入れる。
受容を通してしか、全一性が賞美されることはない。
というのも、分析するとは、分解したり、析出したりすることを意味するからである。
分析することによって全体性を理解しようとする試みは、明らかに、すべてのものに対して自我が適用している自我に特有の矛盾したアプローチである。
自我は、力と理解と真理が分離の中にあると信じており、この信念を確立するために攻撃しなければならない。
奇跡講座 テキスト編T-11.V.13より

一人でぶつぶつと考えているとき、
「なんで奇跡講座/コースの道を選んじゃったんだろう?」と。
この考え方がなければ、家族を私から分離してしまえば、
イライラはなくなるはずで、私に平和な日々が訪れます。

だけど、聖霊は受け入れる。
そしてイエスも赦す。

イエスは、自分を十字架にかけた人までも赦しています。
ここで「私はイエスみたいな聖人じゃないし!」とか言いたくなるのですが、
奇跡講座/コースを歩むことは、イエスと同一になることを目指すことです。

以前も事あるたびに感じていたのですが、
今回も「私はこの家族と共に過ごすことで悟りに至れるに違いない」と思いました(笑)

私の家族が特別、困った人、というわけではありません。
どの人間関係でも、自分の罪悪感を投影し続ける限り、最悪な状態を経験します。
今日だから、こんな風に落ち着いてネタとして書けるのですが、
昨晩は、もう本当にムリ!と思いました。

奇跡講座 ワークブック編のレッスン2
この部屋の中に・・・見えているあらゆるものに、私にとっての意味のすべてを与えたのは、私自身である。

ものを細分化し、それぞれに自分の投影を行なって、意味を与える。
そしてそれを攻撃する。
自我にピッタリのやり方です。

家族も周囲の存在すべてが私と一つです。
私一人では天国の門をくぐることはできません。

兄弟を受け入れ、兄弟と全一性を保たなければ、
神や聖霊と同じ属性でなければ、
彼らと共にそこに住まう自分を認識できません。

こういうとき、時間のありがたみを少し感じます。
時間はこのように使うのだな、と。

今日も兄弟の中の光だけを見ることができますように。
聖霊に共に歩き、道を照らしてもらいましょう。

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