奇跡講座のテキスト。第10章Ⅱ忘れるという決断

すすき

今日は「奇跡講座 テキスト編」より10-2忘れるという決断

攻撃するとき、あなたは自分自身を否定している。
あなたは自分が本来の自分ではないということをはっきりと自分自身に教えていることになる。
あなたによる実相の否定が、神の贈り物の受容を不可能にしている。
なぜなら、あなたが神の贈り物の代わりに別の何かを受け入れてしまっているからである。
奇跡講座 テキスト編T-10.II.4より

今朝、目覚めた時いつもどおり「眠いなぁ、もっと寝ていたい」と思いました。
そして聖霊に「もう一回寝て、今日は遅く起きてもいいだろうか?」と尋ねると、
聖霊はあまりよろしくないけど、まぁ、そうしてもいいわよ的な発言をしました。

ぐずぐずと「聖霊はそう言ってるんだし、ここは起きるべき」と、
「いやぁ、やっぱり昨晩遅かったから、睡眠不足を防ぐために寝よう」というのと、
二つの考えが行ったりきたり・・・
結局は眠さに負けて、もう一度寝てしまいました。

二度目に眠りにつくときに、聖霊に眠りを利用してくれるようにお願いしていました。
その気持ちの反対側には、聖霊の言うとおりに、
また今日も、朝の一番最初から行動できなかった自分に対する罪悪感がありました。

朝の眠たさに対する攻防は、私にとって日常茶飯事のことで、
そして眠さに負けて二度寝することも、たまに、なんてものじゃなく、
たびたび、しばしばあることです。

しかし、その眠りに入るときに気がついたことがあります。
私は聖霊の言うとおりにできなかったことで、学びを少し遅らせるかもしれない。
最短ルートから少し外れたかもしれない。
だけど、そのことに対して罪悪感を持つことが一番真理から遠ざかることなのだ、と。

神へと戻る道には、こんな小さな立ち止まる瞬間もありますし、
もっと大きな1年とか数年とか立ち止まる時もあります。
その時に罪悪感を持つことは助けになるでしょうか?

罪悪感を持つということは、恐れを持つことにもつながります。
神への恐れを強化することになるのではないか?と思います。
戻ってくる意志があるなら、おやすみしてもいい。

やすんでいる、という気持ちがあるから、
どうしても罪悪感をつのらせてしまいますが、
真理はやすんでいる間もそこに在るのだし、マイペースで進めばいいのかな。

あなたは忘れてしまったからこそ、恐れている。
こうして、あなたはさまざまな夢の自覚を智識の代わりとするようになったのだが、それは、あなたが解離させたものを恐れているからではなく、自分がそれを解離させたということ自体を恐れているからである。
あなたが解離させたものが受け入れられたとき、それは恐ろしいものではなくなる。
奇跡講座 テキスト編T-10.II.1より

たくさんの見知らぬ人を祝福するようになって、
この最後の一文は、強く思うことになりました。
受け入れたときに、怖くなくなる、ということ。

分離感があるから、相手が分からなかったり、理解できなかったりするのですが、
相手との間に分離がなかったら、何も怖いものはありません。
私と同じですし、私の一部ですし、私自身であるからです。
そうすると、困っている時は助けよう、自分が何かできることはないか、と考えます。

こういう風に書くと、なんだか自己愛だけがあるように思えますが、
結局のところ、そこがほぼゴールであり、また出発地点でもあるような気がします。

今日もいろいろな出来事があるでしょうけど、
一つずつに聖霊と共に赦しをあてはめていけますように。
大切なことはそう多くはありません。

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