奇跡講座のテキスト。第9章Ⅷ壮大さと尊大さ

ナスタチウム

夏の花ですが、さっぱり明るい色が素敵で今日の写真にしました。

今日は「奇跡講座 テキスト編」より9-8壮大さと尊大さ

尊大さの本質は競争心である。
なぜなら、それはいつでも攻撃を伴うからである。
それは凌駕しようとする妄想的な試みであり、取り消そうとする試みではない。
私たちはすでに、自我は猜疑心と凶暴性の間を揺れ動くと述べた。
あなたが自分自身に絶望している間は、自我は猜疑心をもち続ける。
あなたが自己卑下に甘んじることをやめて、苦しみの軽減を求めるという決断をすると、自我は凶暴性に移行する。
それから、自我は「解決策」として、攻撃という幻想をあなたに差し出す。
奇跡講座 テキスト編T-9.VIII.2より

今日のセクションを読んで、瞑想をしている時
(とは言っても、いつもどおり後半はぐっすり寝ていた模様です(汗))
二人の人の名前が浮かびました。
苗字が同じ女性の二人。
二人の関係はまったくないし、私と彼女たちを結びつけるものはTVなどのメディアだけ。
つまり、一方的に私が知っている二人です。

突拍子もなく出てきた二人に対して
「こりゃ何か意味があるのかも?」と、ネットで二人の近況を調べてみました。

片方の女性は、反原発活動を活発にしており、かなりハッキリした物言いで、ツイッターなどによる自己発信も熱心に行なっていました。
もう一人の女性は、第一線を退いたものの、特技を生かしてイベントを作り出したり、参加してブログによる発信を続けていました。

一人目の女性を調べている時に、私の気持ちがぐらっと怒りの方向に揺れました。
その人はヨガマスターでもあったからでしょう。
私にとってヨガは心の平安を求める一つの動きであり、
彼女のいつも攻撃性を隠さない荒っぽい言葉に「えっ、どうして?」と思ったからです。
しかもマスターとして日々生徒と接しているはずです。

私の自我が「尊大さ」を持ち出して、その人を攻撃しはじめました。
びっくりしました。
日常的に交流もなく、何の接点もない、ただ一方的に知っている人に対して、
私はまだまだこんなにも攻撃してしまう余地があるんだ、というとに。

それは、本当に簡単に起こりました。
私はその人を「ちっぽけな人、マスターなのにマスターじゃない人」とみなして、
自分と分離した存在として扱い、その上で自分の優位性を誇りたかったのです。

もう一人の同じ苗字の女性は、
まったく引っかかるところがなかったことから、
私の心は、うまくその二人を対比させることによって、
自分が批判をしている主体として間に入っていないように見せかけました。

あまりの巧みさにビックリしましたし、
こういうことを今まで無意識のうちに
自然な行動として行なっていたことに気づきました。

あなたの壮大さからは、祝福することだけが可能である。
なぜなら、あなたの壮大さはあなたの豊かさだからである。
祝福することにより、あなたは壮大さを心の中に保持し、それを幻想から守り、自分自身を神の心の中に保つ。
あなたは神の心の中以外のどこにも居られないということを、いつも覚えておきなさい。
これを忘れるとき、あなたは必ず絶望し、攻撃することになる。
奇跡講座 テキスト編T-9.VIII.5より

祝福できない、心が平安の状態にないとき、
私たちは神と共に常に在るということ忘れている状態です。
どうしてそんな大切なことを忘れ、平穏な状態を乱すことを選択するのだろうか?
とも思いますが、なぜか、今はそうなっているようです。

自我を容認しようとするあなたの気持ちだけに、自我は依存している。
もしあなたに自分自身の壮大さを見ようとする意欲があれば、あなたが絶望することはあり得ず、したがって、自我を望むことはあり得ない。
奇跡講座 テキスト編T-9.VIII.6より

どうしてでしょう?と問いかけると、この次のフレーズがやってきます。
それはあなたが、自我を客のように招き、受け入れているからだ」と(汗)

常に神の中に在り続けること。
そのために、神とつなげてくれるチャンネルである聖霊を、
自分の心に常に招いておくこと。

言葉で「常に」と書くのは簡単ですが、実際に行なうことは難しい。
そのため、バロメータとなるのは「自分の心の状態に気づく」ということかもしれません。
ふと、流れては消えていく、自分の心のつぶやきは、平安なものでしょうか?
愛に基づいているものでしょうか?

私たちに求められているのは、意欲。
どちらを選ぶかは、私たち次第なのです。

今日も明るい光が私たちの心と共にありますように。

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