奇跡講座のテキスト。第8章Ⅷ手段または目的としての肉体

銀杏

今日は「奇跡講座 テキスト編」より8-8手段または目的としての肉体

台風の影響でぐずついたお天気が続きます。
何が起こっても動じない、でも緊急の場合にはこの世界的な対応を取るように心がけ、今日も一日を始めましょう。

お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、
このブログに今日書いたものは、今日公開しています。
ストックしている文章もありません。

以前、ワークブック編を学んでいた時期は、書きためていました。
多い時で4日分くらいためて、古いものから公開。
だからお天気やリアルタイムな事件などには殆ど触れていなかったかと思います。

このように毎日書いて、それを公開する、
(もちろん休む日もありますが)
旬の出来事について触れることにより、読んで下さる人たちと同じ気持ちを共有できればいいな、と思うからです。

この世界のものは、何の意味も持ちません。
が、私たちは、意味を持たせたがります。
でも、そうじゃないんだ。
この出来事も、今までに赦した多くの出来事と同じように意味のないもの。
それに気づいて、赦していく感覚を共有できたら、どんなに良いだろう!と思うのです。

知覚においては、全体はさまざまな部分から成り立っており、それらは分離したり、さまざまに異なった配置で再編成されたりすることが可能である。
しかし、智識は決して変わることがなく、その配置は恒久不変である。
部分と全体の関係という考えが意味をもつのは、変化が可能な知覚のレベルにおいてのみである。
それ以外のレベルでは、部分と全体に相違はない。
奇跡講座 テキスト編T-8.VIII.1より

聞くと「なるほど」と思うけど、今までしっかり理解できていなかった部分。
全体の一部として、一なる神の子の一部分として、自分や周囲をとらえてきましたが、
そうではなく、神の前では部分=全体なのです。

他者を見る場合、あなたも一部分、他のあなたも一部分ではない。
それらは部分ではなく、私がフォーカスする時は全体なのです。
(この世界での考え方とは全く違うため、はうまく表現できる言葉がなさそうですが)

今まで、一部分として他者を見ていたため、
一部分=私とは違う部分を担っている人たちと思ってしまい、
そこでかすかな分離感が起こることを見逃していたような気がします。

自我は、病気に多大なる思い入れをもっている。
もしあなたが病気であれば、「あなたは傷つき得ないものではない」という自我の確固たる信念に、あなたが反対することなどできるはずもない。
奇跡講座 テキスト編T-8.VIII.3より

少し風邪っぽくて喉が痛いのですが、
これはまだまだ私が体を目的に使おうとしている証拠なんだなぁ~と眺めています。
これにどう対応するかは聖霊にまかせ、自分でこの状況を責めることはしません。

私はまだまだ学びの入り口に立ったばかり。
惑わすようなことを沢山仕掛けられるのは仕方のないことです。

聖霊は、同じ状況を完全に自覚しながらも、それをわざわざ分析するようなことは、一切しない。
データ自体が無意味なら、それらを分析することには意味はない。
奇跡講座 テキスト編T-8.VIII.6より

聖霊は、私たちの状況を完全に自覚しています。
だから、私たちは一人でこの状況にポツンと置かれているわけではありません。
ただ、傍にいるのに、声を聞き取ることができないのは、私たちが声を求めないからです。

聖霊の声の大きさは、それを聞こうとするあなたの意欲に比例している。
その声があなたの選択の自由を侵すほどに大きくなることはあり得ない。
聖霊はその自由を回復させようとしているのであり、それを損なおうとしているのではない。
奇跡講座 テキスト編T-8.VIII.8より

常に聖霊の声を聞ける耳を、私たちは持ち続けることを意志しましょう。
イエスはそれをしつづけた人です。
小さなことに対する積み重ねが、私たちをイエスの領域に近づけます。
今日という一日を神に捧げられることができますように。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーリンク
スポンサーリンク