奇跡講座のテキスト。第8章Ⅱ幽閉と自由の相違

コスモス

今日は「奇跡講座 テキスト編」より8-2幽閉と自由の相違

私たちは、聖霊が苦痛と喜びの相違をあなたに教えると述べた。
それは、聖霊が幽閉と自由の相違をあなたに教えるというのと同じである。
聖霊がいなければ、あなたにはこの区別ができない。
なぜなら、幽閉が自由だと自分自身に教えてきたからである。
それらが同じものだと信じていながら、どのようにしてそれらを見分けられるだろう。
奇跡講座 テキスト編T-8.II.5より

第7章10で、苦痛と喜びを私たちが混同しているという教えがありました。
今回は幽閉と自由。
そして、それも同様に私たちが混乱しているため、幽閉を自由だと感じているとあります。

自由というものについて、私は今日まであきらめてきました。
ほんの束の間、「自由だなぁ!」と素晴らしい気分になることがありますが、それは一瞬のこと。
すぐにまた窮屈な感覚に逆戻り。

自由とは何だろう?と考えて、自由になれないのも仕方ない、と思い続けていました。
この世界が有限だから、自由という単語が何においてもあてはまらないのです。

一番極端に私が思いつくのは、
世界中を旅することができるとします。果たしてそれは自由でしょうか?
地球以外の場所に行けないことは、自由と言えるのでしょうか?

この世界においては、どんなことでも制限があります。
法律だったり、身分だったり、性別だったり。
それが自由なのかな?
だから、私は自由というものには、あきらめていました。

でも、今日のセクションを読んで、
この状態が、この世界に存在すると思うことが「幽閉」に当たるならば納得できます。
私たちは自分の心を自我にまかせることによって、自ら幽閉されることを選んでしまったのです。

もちろん、聖霊が導いてくれるのは、真の自由への道です。
この世界の中における、偽りの自由、ではありません。

聖霊と常に共にあり、聖霊の選択を選ぶこと。

奇跡講座/コースの教えに触れる時間を、度々取ってみて思うのは、
私たち初心者は、繰り返し同じ教えを聞く必要があるということと、
一日の間にできる限り多くの機会を設けた方が良いということ。

自然に常に聖霊と共にある、なんて、初心者には無理です。
まずは、それを習慣付けることから始めなくては。
スタートして、中間地点を都合よく省いてゴールする、なんてことは無理なのです。

そういう中で役だったのは、
・To Doリストを書いている手帳に聖霊のことや、愛に関することを書きとめ、一日の間に何回か目に入るようにする。
・スマホや携帯のカメラで奇跡講座/コース関連書籍を撮影し、通勤中に何回も読む。
(今日の私はもちろんT-8-2を撮ってきました)

私はツイッターに触れる機会も多く、最近、とてもいいな、と思うのが「ACIM 神の使者.bot」さん。
神の使者からの引用をつぶやいてくれます。
ACIM 神の使者.bot @acimkamishisya
このアカウントは、ふうさんのリツイートから知ることができました。
神の使者に出てくる言葉は、かなり「この世界的」なので、チラリと目にしても心にストレートに届くのでオススメです。

今日も私たちが、聖霊の指し示す道を選び取ることができますように。

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