奇跡講座のテキスト。第6章Ⅱ投影に代わる選択肢

キャンドル

今日は「奇跡講座 テキスト編」より6-2投影に代わる選択肢

今日の部分は興味深いなぁ~と思って、
2回読み直して時間を見たら、1.5時間くらいかかっていました。
途中、かなり雑念が入り、集中できなかったことが原因ですが、
とても読み応えのあるセクションです。

私が今日、この部分を繰り返し読んだのは、
最近また分離を強く感じるようになっているから。

分離していて寂しいという気持ちではなく、
「どうして○○さんは、そう考えるのだろう?(私の考え方の方が正しい!)」
という、相手を批判して、自分を正当化しようとする気持ちが湧きあがるのです。
もちろんこれは、攻撃。

投影と攻撃は必然的に関連している。
なぜなら、投影は常に攻撃を正当化する手段だから。

一度は受け入れた(赦した)相手のことを、
「あなたの目指している方向は間違ってます!」と言いたくて仕方がない。

間違いを正すことと(これはしてもいいと不死というあなたの現実にありました)、
赦すことをどういう風に使い分けたらいいのか分からない。
どこに判断基準を持てばいいのかわからない。

あ、こういう時にこそ、聖霊に聞けばいいのですね(笑)
私の中に明確な判断基準を持つのではなく、
私の中にはそういうものはないのだから、聖霊に判断してもらう。
自分でハンドリングしようとするから、うまくいかないわけで。

聖霊にゆだねようとする気持ちと、
自分ですべてを判断し、コントロールしたい気持ちが同居しています。

だから、今日のセクションを読んで
自分が完璧な存在ということも、兄弟たちも同様に完璧だということも分かるけど、
実感として、向き合った時に自然と呼び起こすことができないのでしょう。

私の中には、まだまだ自我が手段として使えそうな
「捨てたくない個性的なもの」がたくさんあります。
一方で、これにしがみついていては聖霊を呼び込みにくいことも、
しがみついているものに価値がまったくないことも、言葉としては理解しています。

訓練されていない心は何も成すことができない。
この一言につきるのでしょうね。
奇跡講座/コースを読み、行動に反映させる。
それにコツコツと取り組むほかには、ここを打破できる手段はないのでしょう。

あー、一気に私の心がガラリと自我を放棄できる魔法があればいいのに!
と、思いましたが、自分でも分かっている通り、そんなものがあれば「魔術」なのでしょう。

あまりの自分のできなさ加減に、
山奥に逃げ込んだり、引きこもりになりたくなりますが、
それでは逃げるだけで、ここに居ることを選択した意味がなくなる。

今日も聖霊と共に、
私たちが一歩でも神の国に近づくことができますように。

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