奇跡講座のテキスト。第5章Ⅴ自我による罪悪の使用

新宿・くもりぞら

今日は「奇跡講座 テキスト編」より5-5自我による罪悪の使用

自分の中で大きな転換期が来ているようで、
うまく文章がまとまらないような気もしますし、
今日のセクションとあまり関係ない内容になるかもしれません。

会社のメンバーがボスと二人っきりだった状態から、一気に倍の人数に増えました。
それは自分のタイミング的に家族や家族に近い特別な人に対してできたことを
もう少し関係性の薄い人にまで行為として広げることができるか、という体験になるだろうな、と感じていました。

実際、今はそういう状況で、
自分がよく苛立っていたり、誰かを批判していることに気づきました。
誤りを正すことと、赦すこと、どういう風に判断して行動していけばいいのだろう?
悩んでいたら、聖霊に任せること、という言葉が浮かんできました。

その時にようやく、
今までの自分の気持ちはすべて反応であり、選択ではなかったのだと気づきました。

今、会社での行動指針を考えるために、再び完訳 7つの習慣 人格主義の回復(リンクは新訳版)を読んでいます。
7つの習慣は奇跡講座/コースとは全く関係がありません。

今朝、読んでいて「!」と思いました。

愛は動詞であり、具体的な行為である。

愛は自分の中から流れ出る自然な感情ではなく、選択して行動していく主体的なもの。
そしてここには、初期状態は反応ではなく、選択が必ずあるのです。

反応は、私たちは自分の中に今まで培ってきた経験からの即座のものです。
だからそのフィルターがおかしい(この世界基準)である場合、相手の中に聖霊を見ることができないのです。(私)

自分が反応ばかりで生きているのも分かります。
そして反応する技術を磨いてきたもの分かります。
私は「頭の良い人」をめざし(それがこの世界で生き残るすべだと思ったから)、
常に物事に対して即座に反応するように自分を仕立ててきました。

全く相手を思いやるなどの愛情を挟む余地、というか瞬間的な余裕もなかったのです。
余裕を持っては、生きていけないと思ったから。

だけど、実際に時間は存在していませんし、
何かを見て、行動するまでに数秒遅くなったとして、そこに何の問題があるのでしょうか。
もちろん、何も問題はありません。

小池龍之介さんの「考えない練習 (小学館文庫)」の中で、
天皇陛下のお言葉について書かれていました。
それを思い出しています。

今の私の状況はこんなカンジです。
愛が自分になくても、生きていられたということは、
今までどれだけ、そのために周りの人から愛情を吸い上げてきたのだろう?とも思います。
気づかせてもらえてよかった。
今日も聖霊と共に、反応ではなく、自ら選択して真に生きることができますように。

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