奇跡講座のワークブック。の75番目

今日は、「奇跡講座ワークブック 」は75。(リンク先は大内先生翻訳のナチュスピ版です☆)
このレッスンをしているのは3日目。
なんだかどれも、1日で「ほい、次行ってみよう~!」みたいな気分になれず、だらだらと同じレッスンを繰り返しています。

このペースだと、ワークブック2周目を終わらせるのは、3年かかるかも・・・。
うへぇ。
・・・と感じるけど、3年はきっと、あっという間。
今までだって、じんわりとした3年間なんて一度もなかった気がするから。

最近、わくわくするようなことがないし、なんだか積極的にそういうものを作る必要も感じないので、日々同じことの繰り返しで、会う人も毎日変わらない地点にいます。
それでも不思議なのは、怒り・不満ポイントは出てくるのねぇ。
自分でもびっくりしちゃう。

イラッときて、イラっとしている自分に気づき、
「そんなのどうでもいいじゃん、どうせ世界は終わってる」と思う。
ちょっぴりその「終わってる」が平和な感覚で思えないのが、あんまり良いことではないんじゃないかと感じるけど。
(「どうせ」って入ってるのが、たぶん何か裏があるような気がする)

その延長で、今日のレッスンを行っているもんだから、なんだかポジティブな感覚じゃない。
「光は訪れている。私は世界を赦した。」
・・・と言ってみても、
「はいはい、赦してますよ。こんな世界、あってもなくてもどうでもいいもんね~」と。

このニュートラル(?)モード。
レッスンは進みやすいけど、この心持ちで本当にいいんだろうか?
そのうちこれも分かる日が来るのだろう。

楽しくって仕方がない!っていうのでもなければ、
もう苦しくて苦しくて死んでしまいたい!っていうのでもない。
うっすらと「何もないし、すべて意味がないのだなぁ」と感じていて、感情の幅はニュートラルに近い状態であまり変化なし。
もっと奥深いところに怒り・不満があって、見えてない状態なんだろうか。

ま、いっか。
レッスンを続けていけば、時間と共にイヤでもそういうものは表面化するでしょう。

旦那さんの知り合い夫婦の奥様が高所から足をすべらせて転落死。
お葬式に行ってきた旦那さんは、これからの私へのあり方について思ったことを話してくれました。
それに対して、嬉しい気持ちも、残念な気持ちもなく、
やっぱり死ぬことって身近で、あっけないな、死ぬ準備は進めておかないと、と考える私。

高所からの転落ゆえ、きっと形体はよろしい状態ではなかったんだろうけど、
ある意味、私の理想の亡くなり方をした方が現れたことに驚きと(やっぱりそういう状況もアリなんだ!)喜びがありました。

一番面倒くさくなさそうな最期。
誰に迷惑かけるわけでもなく、誰からも迷惑かけられるわけでもなく。
介護の必要もなく、病気の苦しみもなく、スッキリ他界できたというのは。

私は介護されたくないと考えるけど(そりゃ、誰だってそう思うだろう)
その裏にある理由は、わがままが言えなくなるから。
介護されていなければ、自分の体の不自由は自分だけの問題で、自分の中で認識して「ちぇっ」って思うだけ。
だけど、介護されていれば、自分の体の不自由さを、介護してくれる人への要望が通らないことにすりかえて終始ムカついてしまうと思う。

人生も、最期も、自分では決められないことだし、
どんだけ心は穏やかに生きていても、出来事は心の状態を選ばずやってくるのが残念。
だったらやっぱりすべてが「無意味だし、どうでもいいや~」って思うんだな。

たぶん、これは心穏やか、とは違う状況なんだろうなぁ。
すべてが美しく、やさしい光を放っているようには見えないもの。

生きているうちは、悟りに近づける時間がある。
この一生でどんだけこの世界から離れられるんだろうか。
そんな状態になったときに、この状況を振り返るとビックリするのかなぁ。。。

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