「3月11日あの日、何をしていたか。そして今、何ができるか」。脳科学者の編者を筆頭に、16人の著者が綴る「東日本大震災復興」への渾身メッセージ。 未来へ語り継ぐ“ぼくらの実録”として、必読の書! 〈本書の印税と売り上げの一部は毎日新聞東京社会事業団を通じて「東日本大震災」支援のために寄付さ せていただきます。〉
わたしの3・11 あの日から始まる今日
石井光太さんの「遺体―震災、津波の果てに」を読みたいと思って図書館で順番待ち。
なぜか千代田区立図書館に入らないので(リクエスト済み)、文京区立図書館で順番待ち。
図書館だって、選書する人がいて、購入予算があるのだから、なんらかの意図があるんだろうけど、どういう理由で購入されないんだろう?
ちょっと知りたい(笑)
待っている間ヒマなので、石井さんの今までの著作から何か読もうと思った。
図書館にある蔵書の内容を見ても、いまいち自分が読みたいと感じないので、さて・・・
と思っていたところ、この本を発見。
多くの著者の一人に石井さんの名前があった。
【目次より】
「連帯の時」茂木健一郎
「記憶は伝播しづらいものだから」堀江貴文
「報道と現実の間で」石井光太
「求めない」サンドウィッチマン・伊達みきお
「模索する日々」サンドウィッチマン・富澤たけし
「枝野さんといちご」山田スイッチ
「一行書いては消した」加藤千恵
「ならば、問いたい」竹内薫
「アジアのショッピングモールで」渡辺浩弐
「心性に根ざす日常」浅野智哉
「私はどれほど無自覚だっただろう」雨宮処凛
「何事にも終わりはない」村治佳織
「神戸が育んだもの」京田光広
「『津波の痕跡』を記録する」渡辺満久
「私はもうしばらくこの仕事を続けるつもりだ 」上杉隆
「レッツゴー、いいことあるさ」高橋源一郎
石井さん以外には興味がないけど、(あ、サンドウィッチマンには、少しある)
彼の震災関係の話であって、「遺体」につながっていくのだろうから、読んでみようと思った。
文章が短い(だろう)ことも、「石井さん慣らし」になるだろう、と。
こんな本の存在は知らなくて、売上の一部が寄付に回ることも知らなかった。
amazonのレビューはかなり厳しい。
だけど、石井光太さんの文章はよかった!
震災直後、自分がどう行動すべきか、を考える石井さん。
予定通りのことをするのがもっとも簡単で、うま味のある道だろう。決まっている何本もの連載をこなし、隔月ベースで本を刊行し、講演会を引き受ける。それが一番生活を安定させる方法だ。だが、こういう選択に迫られたとき、私はかならず一つの指標で自分の行動を決めることにしている。「小学生だった私が、今の自分を見たときに何をしてほしいと望むか」ということである。
「大人のくだらない都合などどうでもいいから、今すぐに被災地に行って、君にしかできないことをしろ」と叫ぶに違いない。高みの見物をして、知識だけでオピニオンだけを並べる人間にだけはなるなと言うはずだ。
「報道と現実の間で」石井光太 より
私も自分にしかできないことを、東京でやっていた。
被災地に行きたい気持ちはあったけど、資金も、移動手段もなかった。
私の勤める会社は社長と二人の会社で、24時間365日のコールセンターを後ろに抱える仕事。
お客様は全国におり、震災で東北や関東からのオーダーは殆どないかもしれないけど、九州や西日本からのオーダーはあってもおかしくない。
うちには子どもはおらず、私自身が産むということもあきらめてる。
旦那さんは育ち盛りではない。
多少のダーク物質がやってきても、「仕方ないよね~」と言えるご身分。
・・・となれば、東京で働くのが一番復興に近い、と思ったのだ。
もちろん、遠隔でのヒーリングは毎日ボランティアで行っていたけど、東京で通常通りの生活をして、いろんな意味でINとOUTをさせることが、私にしかできないし、私ならできることだと思った。
石井さんの文章では、その被災地で、
遺体をさがし、ブルーシートをはがしてまで撮影するカメラマン、
ハッピーなニュースを発掘するよう送り込まれるメディアなど、
あのとき、あの状況でしか見れなかったことを見て、こうして文章にしてくれている。
この文章を読んで、「遺体」がさらに楽しみになった。
サンドウィッチマンの二人は、顔を知っている程度だったので、彼らがどうして被災地にとことんこだわり、寄り添っているのか分からなかった。
これを読んで納得できた。
周りの人の判断如何では、彼らも津波で死んでいたのだということ、そして仙台出身だということ。
同時に彼らのジレンマも書かれている。(それは多くの人が同じように抱えたジレンマだけど)
「自分のプロとしての職業を通して被災地にプラスになることをしたいが、直接それを投げかけてもいいのだろうか?」ということ。
この本は、多分、震災から1ヶ月後ぐらいに著者たちが書いているもの。
その微妙な、直後でもないけど、終わっているものでもない、という時間軸の中で、それぞれの人がどう行動すればいいのか?に悩んだり、何を書けばいいのか?に悩んだりしているのがとてもよく分かる。
文章それぞれのレベルに違いがありすぎる、プロなんだから!とお怒りの方もいらっしゃるようだけれども、私はこの本が書き手を選んでない(いや、選んだのだろうけど)ことに安心感を覚える。
一ヶ月の時点で、作家や物書きの人すべてがパシッとプロらしく書けるものではないのだ。
それほどに震災の衝撃は大きく、この時点で私たち普通の人と同様にとまどっている人もその専門家の中には多かったんだ、と分かるから。
山田さんの「枝野さんといちご」。
ものすごくよく分かる。
あの、直後の状態の中で、私も枝野さんに枕、とか考えた。
今では、今の状況の中で枝野さんの言動にイラだつ人もいる。
不思議なもんだな、人って・・・と思うばかり。
竹内薫さんはサイエンスライターで、震災前は原発肯定派。
この本の中では、その時点で推進派とは言わず、やや肯定派のようなところに留まる。
私は「ビミョーに否定派」。
自分たちの手にあまりすぎるものだと思うから。
コントロールができないものをあまり近くに置きたくない。
だけど、肯定している人にはそれなりの肯定する理由があり、それは私の「やや否定」なんかよりも巨大な理由なんだろうと思う。
だから私は、ちょっぴり節電するだけ。
自分の楽しみや見栄が、原発を動かす力につながらないよう努力するだけだ。
フリーライターの浅野智哉さんは「人は汚くもあり、美しくもある」と言う。
大勢の人が同時に困ったとき。自分の利益だけをかすめ取ろうと考える者がいる一方で、無条件に他人に助けの手を差し伸べる者がいる。
人は汚く、そして美しい。清濁が混ざり合い、編み重なってゆくのが私たちの日常なのだ。
3・11以降の出来事は、すべて非日常ではない。「M9.0の地震なんて起きない」と考えていたときの毎日と、地続きだと考えるべきだ。
「心性に根ざす日常」浅野智哉 より
誰かの文章の中で、被災地の略奪行為について被災者が理解を示すこともあったよう。
「盗みをはたらく人も、きっと厳しい状況のなんだろう」と。
お人よしなのか、怒るエネルギーがないのか、本当にやさしい人なのかは分からないけど。
フリーライターの上杉隆さんの文章では、直後の官邸、そして東電とのやりとりがわかる。
メディアの裏側を知らない私は、こんな状況が繰り広げられていたとは知らなかった。
いろんな人の3.11と、3.11経過1ヵ月後くらいの様子が分かる本。
それぞれの人がそれぞれの判断で、毎日の生活の中で何を選択していくかが迫られたときだと思う。
そして、何を書くか、についても。
一人の書き手だと、ある一つの意見に偏ったものができるだろうけど、この本はまんべんなく流れているカンジがする。
それでいいんじゃないかなぁ~と思った。
ただ、自分にできることを、自分の中でベストとすることを選択し続けているだけなのだから。
わたしの3・11 あの日から始まる今日